山名文夫

1897年 広島生まれ
1929年 資生堂入社 意匠部
1930年「大阪の三越」5月号 別刷中繪

1931年 東京広告美術協会 設立
1939年 小説[皮膚と心]太宰治 山名文夫夫妻がモデル
1934年 日本工房に参加、対外宣伝誌『NIPPON』の編集担当。
1936年 資生堂に復職。
1940年 報道技術研究会の結成に参加。
1947年 多摩造形芸術専門学校 図案科教授 
     武蔵野美術学校(工芸図案実習) 1947-1949

1948年 資生堂宣伝文化部嘱託。
1950年 多摩美術短期大学 教授
1951年 日本宣伝美協会の創設に参加、初代委員長となる。
1953年 多摩美術大学 教授
1953年 個展「Yamana Ayao個展」開催、『Yamana‐Ayao装画集』刊。
1959年 資生堂顧問に就任
1965年 日本デザイナー学院設立 学院長
1966年 資生堂宣伝部制作室長。
1973年 「体験的デザイン史」ダヴィッド社
1980年 逝去
2004年 「山名文夫―1897‐1980」 スリージーブックス別冊3

「皮膚と心」 太宰治 1939 山名文夫夫妻がモデル

結婚して、私は幸福でございました。いいえ。いや、やっぱり、幸福、と言わなければなりませぬ。罰があたります。私は、大切にいたわられました。あの人は、何かと気が弱く、それに、せんの女に捨てられたような工合らしく、そのゆえに、一層おどおどしている様子で、ずいぶん歯がゆいほど、すべてに自信がなく、 痩 ( や ) せて小さく、お顔も貧相でございます。お仕事は、熱心にいたします。私が、はっと思ったことは、あの人の図案を、ちらと見て、それが見覚えのある図案だったことでございます。なんという奇縁でしょう。あの人に伺ってみて、そのことをたしかめ、私は、そのときはじめて、あの人に恋をしたみたいに、胸がときめきいたしました。あの銀座の有名な化粧品店の、 蔓 ( つる ) バラ模様の商標は、あの人が考案したもので、それだけでは無く、あの化粧品店から売り出されている香水、 石鹸 ( せっけん ) 、おしろいなどのレッテル意匠、それから新聞の広告も、ほとんど、あの人の図案だったのでございます。十年もまえから、あの店の専属のようになって、異色ある蔓バラ模様のレッテル、ポスタア、新聞広告など、ほとんどおひとりで、お画きになっていたのだそうで、いまでは、あの蔓バラ模様は、外国の人さえ覚えていて、あの店の名前を知らなくても、蔓バラを典雅に 絡 ( から ) み合せた特徴ある図案は、どなただって一度は見て、そうして、記憶しているほどでございますものね。私なども、女学校のころから、もう、あの蔓バラ模様を知っていたような気がいたします。私は、奇妙に、あの図案にひかれて、女学校を出てからも、お化粧品は、全部あの化粧品店のものを使って、謂わば、まあ、フアンでございました。けれども私は、いちどだって、あの蔓バラ模様の考案者については、思ってみたことなかった。ずいぶん、うっかり者のようでございますが、けれども、それは私だけでなく、世間のひと皆、新聞の美しい広告を見ても、その図案工を思い尋ねることなど無いでしょう。図案工なんて、ほんとうに縁の下の力持ちみたいなものですのね。私だって、あの人のお嫁さんになって、しばらく経って、それからはじめて気がついたほどでございますもの。それを知ったときには、私は、うれしく、 「あたし、女学校のころからこの模様だいすきだったわ。あなたがお画きになっていたのねえ。うれしいわ。あたし、幸福ね。十年もまえから、あなたと遠くむすばれていたのよ。こちらへ来ることに、きまっていたのね。」と少しはしゃいで見せましたら、あの人は顔を赤くして、 「ふざけちゃいけねえ。職人仕事じゃねえか、よ。」と、しんから恥ずかしそうに、眼をパチパチさせて、それから、フンと力なく笑って、悲しそうな顔をなさいました。