1860年代のシャム(タイ)。港に到着した船からアンナとその息子のルイスが降り立った。アンナは自国の王宮に西洋文化を取り入れようとするシャム国の王から、皇太子チェラロンコン王子を初めとした、王子・王女の家庭教師として招かれたのだ。
宮廷に到着したものの、王様との謁見がすむまではと数日間部屋から一歩も外に出してはもらえない。しかも宮廷の外に家をもらえる約束でシャムにやってきたものの、約束は破られ宮廷内に一室を与えられる。
王様との謁見の日、アンナの目の前でビルマの王子からの貢ぎ物として、タプティムという女性が使者ルンタに連れられてきた。
王様はタプティムをとても気に入ったようだが、アンナはショックを隠せない。イギリス人のアンナにとって一夫多妻制が認められている王宮は理解しがたいものだったのだ。
しかし、王様の子供たちと対面したアンナは気を取り直し、子供たちの教師としても生活が始まった。
王宮での生活にも慣れ、子供たちにも愛情を感じ始めていたある日、教室に王様がやってきた。約束の家が与えられないことを訴えるアンナに、王様は「おまえも余の召使いではないか」と
暴言を吐く。そんな王様に腹を立てたアンナは「イギリスに帰る」と言い出し教室を出ていく。
それにうろたえたのはルンタとタプティム。実はこの二人は恋人同士で、アンナの計らいで密会を繰り返していたのだ。「アンナ先生がいなくなったらどうやって会えばよいのか?」二人きりで会うことが叶わないことを嘆く二人。
その頃、王様の第一夫人であるチャン夫人がアンナの部屋を訪れていた。「王様はあなたを必要としている。本当は寂しがり屋の王様を理解してこの地にとどまって欲しい」とアンナに訴えに。チャン夫人の王様とシャムに対する愛情に心を動かされたアンナはシャムにとどまることを決意する。
その頃、シャムを『野蛮な後進国』とみなし保護領下に置こうとするイギリスの特使一行が、シンガポールから視察にくるとの連絡が入った。王様は大国イギリスに対しシャムの力を誇示しようと考えるが、アンナの提案により西洋式レセプションを開き、特使一行をもてなすことでシャムを近代的な国に見せ、一行の認識を改めさせることになる。そして、王様がアンナに家を与えると約束して一幕終わる。
当日、宮廷はレセプションの準備に大わらわ。王様の予想よりも早く到着した特使一行。その特使 ラムゼイ卿はアンナの亡夫トムの友人であり、アンナとも旧知の間柄だった。再会を喜ぶアンナとラムゼイに王様は嫉妬を覚える。
その頃タプティムは、ルンタとの関係を知るチャン夫人からルンタがビルマに帰国することを聞かされ絶望する。しかし、ルンタから逃亡の話を持ちかけられ、タプティムが披露するレセプション後の舞踏劇「トーマス叔父さんの小さな家」が終わり次第二人で逃げ出すことになる。
レセプション・舞踏劇ともに成功するが、王様はこの劇の王制批判的な内容が面白くない。
しかし、アンナと二人きりになって王様が上機嫌でアンナに感謝したとき、タプティムがルンタと逃亡したとの知らせを受ける。王様は怒りタプティムをとらえるように命じる。アンナは二人の愛を認め、タプティムを許し解放してあげるべきだというが王様は聞く耳を持たない。
やがてタプティムが捕らえられ、王様はアンナの制止も聞かず鞭打ちを命じる。アンナが思わず「野蛮人」と叫び「即刻この国から出ていく」と言った直後、王様が倒れる。
船を待つアンナの元にチャン夫人とチェラロンコン王子が重体の王様からの手紙を持ってやってくる。それはアンナへの感謝の気持ちを述べた手紙で、その手紙に心を打たれたアンナは、出発を待つ間アンナは王宮に引き返す。
アンナが王宮に着くと、床に伏した王様は自らの死期を悟り皇太子チェラロンコン王子に王位継承を告げ、アンナに皇太子の未来を託し息絶える。
ヒロインのアンナ・レオノーウェンズ(1831〜1914)は実在の人物。彼女がイギリスに帰国したあとに書いた体験記をもとに 、マーガレット・ランドンという女性が1944年『アンナとシャム王』を著しました。オリエンタルな異国情緒あふれるこの恋愛物語は大評判となり、すぐに映画化されました。ユル・ブリンナーとデボラ・カーが演じて大ヒットしたミュージカル映画
「王様と私」(1956年)は 、そのリメイク版です。「アンナと王様」も、もちろん同じ原作をもとに、アンナにアカデミー賞女優ジョディ・フォスター、そしてモンクット王にはあのチョウ・ユンファを配し
、話題性抜群の大作に仕上げています。
タイ王宮やエメラルド寺院をはじめとする有名な寺院が舞台背景として登場しますが 、驚かされるのは、あれがみんなオープンセットだということです。すっかり、現地でロケが行われたものと思い込んでいましたが、実は、「王様と私」が現在でもタイでは上映が許可されていないのと同様
、今回も現地ロケは許されなかったのだそうです。その理由はたぶん、モンクット王をはじめとするタイ王室が“正しく”描かれていないからだ、ということだと思うのですが
、現在のタイ国王プミポン(ラーマ9世)は、モンクット王の曾孫(ひまご)にあたります。日本でいえば、明治天皇と外国人のラブロマンスになるのですから、許可されなくてあたりまえ
、なのかもしれません。しかし、タイを舞台とした物語でありながら、タイでは上映禁止というのもなんだか妙な話です。それも、何度もリメイクされるような(とくに欧米では)人気作品だというのに…。そのあたりにこの物語の本質が隠されているのかもしれません。
ということで 、ロケはすべて隣国のマレーシアで行われたのだそーです。それにしても、あの建物やら寺院やら仏像やらがすべて作り物とは!ちなみに今はやりのCGはほとんど使われていないようですね。1ヶ所だけ
、最初のシーンで前を行くゾウさんのお尻から街全体の俯瞰にパンする場面がありますが、あの遠景はどう見てもCGだとわかります。
こんな時代
タイの歴史から概観してみましょう。
世界史の教科書に登場するタイの王朝は、スコータイ朝、アユタヤ朝 、チャクリ(バンコク)朝の3王朝です。タイの最初の王朝がスコータイ朝(1257〜15世紀)。都はタイの北部にありました。ちょうどその頃ユーラシア大陸に君臨していたのがモンゴル帝国。モンゴル人が中国に建てた元ともけっこう仲良くやっていたようです。スコータイ朝時代に
、現在のタイ文字も作られています。
14世紀に入ると 、タイの勢力分布は一変します。モンゴル人の侵入もあってどんどん南下していたタイ人が南部のアユタヤに王朝を築きます。これがアユタヤ朝(1350〜1767)です。あの山田長政をはじめとする日本人が日本人街を作ったのはこの頃です。アユタヤにはバン・パイン宮殿やワット・ロカヤ・スタの巨大涅槃仏など
、当時の栄華をしのばせる建造物が今もまだ残っていますが、それもかつては約500以上あったといわれる寺院群の本の一部でしかありません。ほとんどの建物は、再三にわたるビルマ人の侵入によって破壊されてしまったといいます(
「アンナと王様」でも 、ビルマはタイのライバルとして描かれています)。結局アユタヤ朝は、ビルマ人の侵攻によって18世紀半ばに滅ぼされてしまうのです。このとき、ビルマ軍の包囲を突破したアユタヤの武将がターク・シンでした。ターク・シンは
、この映画の中で、モンクット王を裏切るアラク将軍が心酔する人物として描かれています。ターク・シンはアユタヤを奪回しますが、すでに廃墟と化したアユタヤをあきらめ
、バンコクの対岸トンブリーに都を再建します。しかし、ターク・シン王が気がふれたことから王族が抗争をはじめ、最後にはプラヤー・チャクリ将軍が王を処刑、バンコクに都を定めて自らラーマ1世として即位しました。これが現王朝チャクリ朝(ラッタナコーシン朝)(1782〜)の始まりです。
※ちなみに「バンコク」という名称は 、この町を流れる運河の名前に由来する外国人による俗称で、正式には「クルンテープ・マハーナコーン」といいます。また、「タイ」という国名は1939年から採用された国名で
、正式には「ムアン・タイ(=自由の国)」。「シャム」というのはそれ以前の国名です。
19世紀半ばからタイは 、イギリス・フランスをはじめとする列強の圧迫を受け始めます。1855年、タイはイギリスとボウリング条約を締結し、治外法権を認め、関税自主権を放棄させられて自由貿易を認めさせられます。こうした不平等条約を
、タイはその後フランス・米国とも締結することになります。とくに、インドとビルマを植民地化したイギリスは西部からタイを脅かし、ヴェトナム・カンボジアを手にしたフランスは東部からタイをうかがっていました。
こうした中 、タイの近代化を推し進めたのがラーマ4世(在位1851〜68)とラーマ5世(在位1868〜1910)の親子でした。とくにラーマ5世は、財政制度、軍制、教育制度
、郵便制度、電信電話制度など一連の改革(チャクリー改革)を図り、タイの近代化(西欧化)に努めたのです。その改革の中には、この映画でも重要な要素の一つとして描かれる奴隷制度の廃止も含まれていました。こうして彼の改革は
、帝国主義列強による植民地化の危機に対し、独立を保持する原動力となっていきます。
1896年 、イギリスとフランスは、協定を結び、緩衝地帯としてタイ領に出兵しないこと、タイの独立を保持することを約束しました。タイは、王室の外交努力と英・仏の駆け引きによって植民地化を免れたのです。
ものがたり
1862年、イギリス人アンナ・レオノーウェンズは、シャムのモンクット王から依頼されて王子の家庭教師を務めるためにバンコクにやってきた。23人の妻と42人の側室を侍らし
、58人の子どもをもつ国王。彼を神のように敬う民衆。イギリスとはあまりにも異なる生活習慣。アンナはとまどいながらも、自分のプライドに背くことは断固として拒否する気の強さを見せていた。皇太子チュラロンコーンは11歳。アンナは授業に10歳の息子ルイも同席させ
、皇太子たちへの英語や科学、そして国際感覚を身につける教育を始める。
アンナの母国イギリスは、当時インドからビルマを植民地化し 、シャム国境を窺っていた。モンクット王はタイの独立を守るため、イギリスをはじめ諸外国の高官たちを集めてパーティを開く。席上、イギリスの植民地政策を鋭く批判するアンナの発言に王は驚きながらも心惹かれ
、彼女をダンスに誘う…。
物語は 、アンナとモンクット王の心の動きを軸に、国王の側室という運命に逆らおうとする女性タプティムの悲劇、アラク将軍のクーデターという国家の危機を絡ませ、思いがけないクライマックスへ向かっていく。
みたあとで
モンクット王は、アンナの前にもふたりのアメリカ人家庭教師を雇っていますが、いずれも英語教育よりもキリスト教の布教に力を入れたため 、クビにしているのだそうです。それだけにアンナに対する期待は大きかったものと思います。彼は、47歳で即位するまでの27年間を出家僧として過ごし、この間英語や西洋科学を学びました。そして
、実は、アンナと出会ったとき既に58歳だったのです。チョウ・ユンファは実年齢が45歳ですから、映画ではずいぶん若く描かれていることになります。実際にはアンナとの恋物語もなかったのかもしれません。晩年の6年間をアンナとともに過ごした王は
、アンナが帰国した翌年、マラリアにかかって64歳で崩御しています。彼の死後、アンナにしっかり国際感覚をたたき込まれたチュラロンコーンが15歳で即位するのです。
さて、その後のアンナについては、ノベライゼーション小説『アンナと王様』(竹書房文庫)の解説に興味深いことが書かれてあります。
アンナは帰国後アメリカに渡り 、シャム時代の体験を著した手記を発表して一躍脚光を浴びます。その後カナダに移り住みますが、1897年、たまたま訪れたロンドンで、シャム国王として訪英中のチュランロンコーンと30年ぶりの再会を果たしました。また
、シャムに同行した息子のルイは、オーストラリアに移住して警察官になりますが、長続きせず、結局シャムに舞い戻って、チュラロンコーンの身辺を警備する近衛将校になったのだそうです。のちに王女のひとり(国王の妹であり
、かつて母の授業をともに受けた同級生)と結婚して、チーク材を扱う材木会社を設立して財をなしました。かつてチュラロンコーンが住んでいた宮殿のひとつビマンメク宮殿(現在博物館として公開)は
、チーク材を使った建造物としては世界最大なのだそうです。もしかしたらルイの会社が絡んでいるのかもしれません。
実在のアンナは 、この映画でジョディ・フォスターが熱演しているとおりの、知性にあふれた、言うべきことははっきり言う女性だったことは確かなようです。奴隷制度を批判したことで彼女は二度も命を狙われたことがあるくらいだそうですから。イギリス本国の帝国主義政策に対して
、あれほど真っ向から批判したというのも、彼女の生き方を見ると、あながちフィクションとは思えなくなってきます。
タイの人たちのアンナに対する評価を聞いてみたいものです。あんまり評判良くないのかも…。