華友会館

石田英一郎 男爵  

府立四中、
一高を経て、
京都帝国大学経済学部中退。
1928年、京都学連事件および三・一五事件に連座して爵位を返上。
1934年まで入獄する。
1937年から2年間ウィーン大学に留学。
1944年、蒙古善隣協会西北研究所所長。
1948年、『河童駒引考』を上梓、
1949年、法政大学教授。
1951年、東京大学教養学部教授となり、文化人類学教室の初代主任を務めた。
また第一次東大アンデス学術調査団団長。
1964年、定年退官後、東北大学日本文化研究施設主任、
多摩美術大学学長を歴任。
1967年、『マヤ文明』で毎日出版文化賞受賞。日本民族学会会長を務めた。
『石田英一郎全集』全8巻(1970-72)がある。

1925年4月22日  治安維持法公布

旧 治安維持法
治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件
公布:大正一二年九月七日(勅令第四〇三号)
廃止:大正一四年 (法律四六号治維法附則)
 出版通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス暴行騒擾其ノ他生命、身体若ハ財産ニ危害ヲ及ホスヘキ犯罪ヲ煽動シ安寧秩序ヲ紊乱スル目的ヲ以テ治安ヲ害スル事項ヲ流布シ又ハ人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者ハ十年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス

治安維持法
公布:大正一四年四月二二日
法 律 第 四 六 号
第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス(2)前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二条 前条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第四条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同ジ
第六条 前五条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス
第七条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス
   付 則
大正十二年勅令第四百三号ハ之ヲ廃止ス

治安維持法中改正緊急勅令
公布:昭和三年六月二九日
   勅令 第 一二九 号
治安維持法中左ノ通改正ス
第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
(2)私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
(3)前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二条中「前条第一項」ヲ「前条第一項又ハ第二項」ニ改ム
第三条及第四条中「第一条第一項」ヲ「第一条第一項又ハ第二項」ニ改ム
第五条中「第一条第一項及」ヲ「第一条第一項第二項又ハ」ニ改ム
   付 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
[以上]

京都学連事件

1926年1月15日午前三時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、六時活動を開始した。七時半までに京大社研の淡徳三郎(大学院)、岩田義道(経三)、石田英一郎、熊谷孝雄(経二)、栗原佑、太田遼一郎、 泉隆、白谷忠三、黒田久太(経一)、山崎雄次(法三)、橋本省三(法二)の一二名と同志社社研内海洋一(経一)、 大浦梅夫(高商三)の合計一四名を検挙し、同時に京大教授河上肇、同志社大講師河野密、山本宣治の私宅、 農民組合事務所、京都地方評議会事務所をはじめ評議会の国領伍一郎、辻井民之助、半谷玉三、奥村甚之助、谷口善太郎、 農民組合の森英吉、京大助手(新人会員)杉野忠夫などの私宅が一斉に家宅捜索をうけた。

兵庫県でも関西学院大教授河上丈太郎、松沢兼人、新明正道などの私宅など十数ヵ所が家宅捜索をうけた。

同じ一五日東京では村尾薩男(東大文三)、清水平九郎(明治学院)、広谷賀真(慶応)が検挙され、 一八日には京都で鈴木安蔵(京大経一)が追加された。

そして不敬罪にもとわれている石田を除く一七名は一月二六日出版法違反ならびに治安維持法違反で起訴、予審に付せられた。

しかし検挙はこれで終らず一月二七日午後から第二次検挙が開始され、 同日夕刻までに京大社研逸見重雄(経三)、鷲谷武二(文二)、古賀二雄(法一)、藤井米三(経卒)、同志社社研宮崎菊二、沢田政雄(経一)のほか小崎正潔(関西学院)、蓬台恒治(神戸高商)の八名、 翌二八日には黒川健三、原田耕(大阪外語)の二名が検挙された。

その後検挙は四月中旬まで続き、その間に京都社研では武藤丸楠(経一)、池田隆(医二)、大橋積(経卒)、 東大新人会では是枝恭二(文二)、松本篤一(文二)、後藤寿夫(法三)、その他に実川清文(日本大)、 秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙された。

 

石田八弥 1863-1925
文久3年8月1日生まれ。石田英吉の養子。出羽(でわ)花輪村(秋田県)出身。旧姓は奈良。
明治21-24年ドイツのフライブルク鉱山大に留学,母校帝国大学の教授となる。
のち三菱合資会社にはいり,大阪製錬所長をへて,
大正6年鉱業研究所長。
大正7年鉱山部,炭坑部が分離して創立された三菱鉱業(現三菱マテリアル)の取締役に就任。
大正14年3月10日死去。63歳。

石田英吉 1839-1901 伊吹周吉 伊吹慶良 伊吹終吉

土佐国安芸郡中山村(現在の高知県安芸郡安田町中ノ川)の医師、伊吹泰次の長男として中山村中ノ川に生まれた。
幼少の頃から頭脳明敏、初めは安田の高松順蔵(高松太郎の父)に学び、
嘉永七年郡奉行所に併置された藩校・田野学館で文武の修業を行い、
此の頃の師・高松順蔵が坂本龍馬の義兄だったところから、早くから龍馬と係わりを持った。
文久元年 医学を修めるために大坂に出て、蘭医の大家・緒方洪庵の適塾に入る。
文久二年 上京して勤王の志士と交わり、
文久三年 吉村虎太郎等と共に天誅組の挙兵に参加した。高取城の砲撃では戦功をたてたが敗れて、重包囲網を突破し長州に逃れて、
翌元治元年 禁門の変では忠勇隊に属して戦い、重傷を負って再び長州に走った。
慶応元年 幕府の長州再征に際しては、高杉晋作の率いる奇兵隊に参加して活躍している。
慶応二年 六月、小倉口攻防戦では龍馬の意を受けて、ユニオン号に砲手長として乗り込み、船将の菅野覚兵衛等と協力して小倉藩門司陣地を砲撃し、戦果を挙げている。此の頃、坂本龍馬の採っている行動に共感し、奇兵隊を離れて亀山社中へ加入している。
慶応三年 四月に海援隊が結成されると、亀山社中に引き続いて是に参加し陸奥陽之助等と共に貿易、海軍の事務に尽力した。
坂本龍馬の死後、長岡謙吉と共に瀬戸内海諸島の鎮撫に力を尽くし、その後長崎に出て海援隊長崎在住派幹部・菅野覚兵衛等に合流した。
やがて長崎で組織された遊撃隊の御用掛かり、そしてそれが振遠隊に改編されると軍監に任ぜられ奥羽に向かい、奥羽鎮撫総督府の参謀に列し秋田方面に出征して各地に転戦した。
維新後 新政府に出仕し
明治二年 長崎県小参事を振り出しに、官吏の道を歩み、秋田縣権縣令、長崎縣令、千葉縣知事、
明治二十五年 十一月から、三十年四月まで高知県知事を務めた。
明治二十三年 陸奥宗光農商務大臣の下、次官を務め貴族院議員に勅撰された。
明治三十四年 四月八日没。 享年六十三歳。 男爵を授けられた。