帝国音楽学校の歴史
     1917 帝國音楽学校 私立学校設立認可案(各種学校) 府市学務課4 30 
1926       
堤康次郎の音楽村構想
東京高等音楽学院」設立4/
渡邊敢 (現 国立音楽大学)
ヴァンダーリップ夫人の寄付金
1926/5/28東京朝日
1926/5/29読売新聞
1927

小田急線開通 世田ヶ谷中原駅(現  代田駅)
第一次「帝国音楽学校」
荏原郡世田谷町
設立申請 高井マキ10/22
村上直次郎が応援
指令案(学校設置の件認可)府市11/28
指令案(校長就任の件認可)府市12/22
福井直秋 校長
拡大
1928 第一次「帝国音楽学校」設立1.27 生徒募集4.4 
世田谷町代田701
高井徳蔵が創立提唱 福井直秋に就任要請
福井直秋 校長 4/11
創立資金に対する利息の引上げ、学校予定敷地の違約、ピアノ台数の不足
福井直秋 校長辞任10/27
指令案(校長事務取扱就任の件認可)府市学務課12/21 
1929

第一次帝国音楽学校の在学生128名が「武蔵野音楽学校」に転入移籍
生徒全員、福井校長留任の要望書
教職員16名校長とともに辞表提出
指令案(学則中変更の件認可)府市学務課2/13
高井マキ 校長事務取扱

福井直秋
武蔵野音楽学校事務所1.16
小池茂実所有の校舎を借受
東京府下代々幡町幡ケ谷8
「武蔵野音楽学校」申請1.29 認可3/25
「帝国美術学校」北れい吉設立

1930 北の身内が「東京高等音楽学院」を退学して帝国音楽学校に入学
北れい吉が父兄代表9/ 
第二次「帝国音楽学校」開校10/ 
有馬頼寧校長就任11月
「東京府荏原郡世田谷町全圖」代田701
革新的な制度の運営
評議員会(教授 3 名、父兄 3 名、校長)、教授会(全教授)
理事会(各学年から男女 2 名計 4 名ずつ選出)を組織
理事会内で選出された 5 名の学生は、
学生の要望を直接教授会又は評議会に提出することのできる
同校に就任する教授も、学生投票によって決定される

「東京高等音楽学院」内紛 判和解
渡邊敢引退8/13
三室戸敬光 学院長就任9/

1931 北れい吉 評議員10月

1932 北れい吉 校長就任 6月
北れい吉 ハーバード大学客員教授 各国歴訪7/30 ロサンゼルスオリンピック観戦
「美術視察」カナダ・ メキシコ・フランス・スイス・イタリア・ドイツ各国歴訪
北の不在の間は、教授評議員の鈴木鎮一が校長代理 
運営は評議員教授の3名 鈴木鎮一、小松平五郎、野村光一、財政困難。
解雇騒動 12/5
評議員の菅原明朗らが解雇12/5 看板教授とその弟子8名
1935年2月に終結世田ヶ谷町が世田谷区へ合併

専門学校認可3/25
入学案内 第一回帝国音楽学校演奏会 日本青年館 6/14
1933
北れい吉8月2日帰国
校長が不在であったために、校長と教授 学生らとの関わりはほとんどない
幹部以外の教授や講師の意見が通る機関がない、
評議員制は崩壊し、評議員の独裁体制になる

1934 (学則中変更の件認可)府市学務課6/25
同窓会 会員録pdf 7/25
「東京高等音楽学院」
大塚分教場
設立 三室戸敬光

「日本大学専門部芸術学園」
合併騒動 「帝国音楽学校 野村光一」「日大芸術 堀内敬三」併合案 春頃
小松平五郎、評議員会にて合併案提示9/下旬 合併交渉開始10/下旬
北れい吉校長と松原日大芸術科長会見11/30 交渉成立 12/上旬
終業式前に教員らに再度採決、合併了解を得る。 終業式で学生に伝達12/19
帝音学生が全学生大会開き、学生代表を選出12/ 
代表学生ら小松を訪問、合併反対意見を提出12/23
 帝国音楽学校が「全学生の自主に依って創立されたもの」であり
「学校の内規にも評議は学生の意思を尊重し、学生代表に諮問する事という一ヶ条がある」にもかかわらず、
合併が秘密裏に行われ、父兄、卒業生、教職員、学生に一言の相談もない

1935

合併反対派が全学生大会開催 1/7 
代表学生が北を訪問、反対決議書を提出するが受理されず 1/14  
新聞報道を受け、代表学生らが松原寛宅を訪問 1/16
鈴木鎮一が自力更生案を提示。1/23
学生ら、鈴木の更生案を知り、反対運動の勢い増す 1/28  
更生案実現に至らず 1/30 調印覆る 2/4 
合併反対派で集会、推進派開催の集会への欠席を呼びかけ 2/7 夜  
反対派、推進派開催の集会に一人も出席せず
反対派が全学生大会、教職員会、卒業生会を開き総退学決定 2/8 同盟休校
[声明書]帝国音楽学校学生会2/11
 学生、職員の大部分が退学、辞職し「帝国高等音楽学院」に 2/13
[声明書]帝国音楽学校職員有志一同 2/
高井マキが廃校を決心 第二次帝国音楽学校 廃校 2/31 
「日大芸術」が併合契約を断念7/3
報知、東京日日が合併調印を報じる 1/
『朝日新聞』2/7
『月刊楽譜』(第24巻第4号) 4/

「帝国高等音楽院」授業開始2/14
鈴木鎮一 世田谷経堂立
「帝国音楽学院創設までの経過報告」
帝国音楽学校在京同窓生一同
2/15
「帝國高等音楽学院」学生会有志
帝国美術学校でビラ撒布
 2/21
帝国美術学校洋画科集会
4/22
帝国美術学校同盟休校 5/16
帝国美術学校封鎖 5/21
「多摩帝国美術学校開校」 9/6

1936  
1937 「帝国高等音楽学院」開校 鈴木鎮一
[愛国行進曲]
1938 「東邦音楽学校」設立
校長:三室戸為光
1939 「帝国高等音楽学院」認可
世田谷区(東京都公文書館)
[太平洋行進曲]
1940 皇紀2600年に寄せる祝典曲
リヒャルト・シュトラウス
1941  
1942  
1943 「帝国高等音楽学院」解散
1944 長原駅 戦災 7/1
1945 世田ヶ谷中原駅 営業再開 6/19
世田ヶ谷中原駅 世田谷代田駅に改称 8/20

参考文献
東京都公文書館  http://www.archives.metro.tokyo.jp/
地図 「世田谷町代田701」
航空写真 戦災
「東京府荏原郡世田谷町全圖」
1932 入学式案内 第一回 帝国音楽学校演奏会 日本青年館 6.14
1933 雑誌『音楽世界』(6巻2号)に論文「帝国音楽学校を解剖する」深井史郎 .
1934  同窓会 会員録pdf 7/25
1935 [声明書]帝国音楽学校学生会2/11
1935 「帝国高等音楽院」鈴木鎮一 2/14
1935 「帝国音楽学院創設までの経過報告」帝国音楽学校在京同窓生一同2/15
1935 [声明書]帝国音楽学校職員有志一同 2/
1935 反対派が帝国美術学校でビラ撒布 2/21
1935/2/7『朝日新聞』
    「第二次帝国音楽学校は学校という名はあるものの、提琴家モギレフスキーを中心としたささやかな楽塾である、
それだけに教授も学生ものんびりとした研究施設を与えられて型にはまった学校制度は御免だというのが
今度の騒動のイデオロギーである」
1935/4月『月刊楽譜』(第 24 巻第 4 号)
  鈴木を弁護した平間文壽曰く、ピア ノはかねてから同校に必要とされていたものだというが、
これは楽器屋に顔の利く鎮一ならではの妙案で、ピアノをタイミングよく届けさせたことで、合併反対運動に拍車をかけたこ とは確かである。
1937 「大日本職業別明細図」
1941 「音楽年鑑」発行大日本音楽協会 共益商社書店 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109457
2010  [下北沢文士村町文化地図」
2020 年度前期 NHK連続テレビ小説《エール》

登場人物 第一次帝國音楽学校

高井徳蔵
高井マキ妻(新潟高等女学校 )
東京音楽学校出身、楽器店主
1899.6「新式遊戯法」高井徳造, 服部乙次郎 編
1940「模範学校楽典教科書」

村上直次郎 1868/2/26~1966/9/17 豊後玖珠
(東京音楽学校校長)同志社大学 同予科(神学科)卒業
第一高等学校
1895科大学史学科を卒業
東京帝国大学講師、東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長
1884 東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長
台北帝国大学
上智大学第4代学長
日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。

福井直秋 1877/10/17~1963/12/12 富山県
(青山師範学校教授)
1899 東京音楽学校
1929 武蔵野音楽学校創設
1949 新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長
小池茂實 1882.5.3長野県上郷村。小池平六郎の二男
大倉高商を卒業。実業界に入る。
1915私塾の商工学舎を創立
1925早稲田商業学校と改称
1929京王商業学校を杉並区和泉に創設
(後の専修大学の附属高校となり、現在は専修大学附属高校)
1929代々幡町幡ケ谷8の校舎を武蔵野音楽学校事務所に貸1.16
1943.5.20没

アレクサンダー・モギレフスキー[]1885-1953
ヴァイオリニストの(Alexander Yakovlevich Mogilevsky )
オデッサ出身。モスクワ音楽院、ロシア音楽院(パリ)で教鞭
1926 演奏旅行で初来日
1927  6月から 12月まで、東京高等音楽学院に招聘
1930  第二次帝国音楽学校 学生投票によって教授

鈴木鎮一  1898/10/17~1998/1/26
愛知県名古屋市門前町 父=鈴木 政吉(バイオリン製作者)
名古屋商卒
級友の卒業試験カンニングに対する学校側の処分に抗議、全学ストライキ
1919 徳川義親侯爵ら一行の北千島探険旅行に参加
1921 徳川侯爵らの世界一周旅行に同行し、ドイツヘ留学
1928 ワルトラウト・プランゲと結婚
1928 国立音楽学校講師
1031 帝国音楽学校 教授
1932  『音楽講座』(文芸春秋社刊)第9篇「絃楽」ヴァイオリン及び弓の研究10/
1932  『音楽講座』(文芸春秋社刊)11篇「室内楽」日本ヴァイオリン史11/
1936  『アルス音楽大講座』(アルス刊)第6巻「絃楽器の実技」カイザーの練習
1943 戦時下帝国高等音楽学校解散
1996  鈴木鎮一記念館
「鈴木鎮一と才能教育―その形成史と本質の解明」  []
  属啓成 1902/10/17-1994/10/12朝鮮生 旧姓:朴
ピアノ科助教授の妻の属澄江も嘱託でピアノを担当
「音楽形式の基礎」音楽之友社
義父:属最吉 三井 鉱山取締役、
義兄:俵田寛夫 旧姓:朴 宇部興産副社長
  平間文壽 1900-1989 福島県福島市で生
1920 東京音楽学校声 楽部に入学し、声楽(テナー)を専攻した。
1923 イタリアのミラノ国立音楽院に留学
1927 帰国
日本におけるベル・カント (bel canto)声楽発展のために邁進
1929 東京帝国音楽学校 声楽 主任教授
1940 朝鮮総督府学務局の学務課所属の嘱託として朝鮮に渡る
   京城女子師範学校、教学研修所、朝鮮放送協会嘱託
1942 京城女子医学専門学校 講師
  田村虎蔵
修身・ 教育・音楽教授法
  野村光一 1895-1988
大正9 慶応義塾大学文科卒
帝音評議員
音楽史
日本ショパン協会会長
昭和48年紫綬褒章〔昭和42年 勲四等旭日小綬章
菅原明朗 1897/3/20~1988/4/2 本名は吉治郎。兵庫県明石郡明石町
1913 川端画学校
1930 帝国音楽学校 作曲科主任
1938 歌劇『葛飾情話』
1930 4月箕作秋吉とともに新興作曲家連盟を創立
  下總皖一
文部省在外研究員ドイツ留学
東京音楽学校助教授
1942 教授
  麻生義輝 1901/7/10-1938大分県
美学者,哲学史家
東京帝大卒
「近世日本哲学史」
「近代国家論」クロポトキン訳書
「西周の哲学著作集」編集
昭和2年文芸解放社の結成に参加 アナーキスト
5年帝国音楽学校教授
7年帝国美術学校教授
昭和17年 美のある生活(今日の教養書選22)
  深井史郎 [] 1907/4/4~1959/ 7/2

 秋田県秋田市新屋町
昭和3年国立音楽学院
帝国美術入学
昭和6作曲科卒業
32 財団法人日本映画音楽協会会長
登場人物 第二次帝國音楽学校
  北れい吉
1934 帝音-日大音楽科間の合併案

有馬頼寧 1884日本橋 -1957
1911 農商務省に入省
1912 有馬家、荻窪に1万5千坪の土地を入手
1918 東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所講師となる
1922 西荻窪駅を誘致
1924 衆議院議員選挙に当選
1927 伯爵家を継承
1928 荻窪に転居
1929 貴族院議員選挙に当選
1932 農林政務次官
1937 第一次近衛内閣、農林大臣に就任
1940 大政翼賛会の事務総長に就任、5カ月後に辞任
1945 12月A級戦犯容疑で収容されたが不起訴
1955 日本中央競馬会理事長x
頼寧日記1913-1957
「西荻窪駅」誘致にあたって用地購入の大口寄付者 ほか内田秀五郎
高田集蔵 1879/10/1〜1960/10/10
宗教家,思想家 号=竹隣
東京専門学校法律科中退
霊的求道者「大正畸人伝」
個人紙誌を発行 「 独立」「村落通信」「一艸蘆」
天皇崇拝 軍備全廃を唱えた平和主義者
  江藤 輝(作曲家)-1946  江藤 支那子(ピアニスト)
子:誠j仁右衛門1945- 神戸市

  奥田 良三 1903-1993 札幌市
東京音楽学校中退 ベルリン音楽大学
テノール歌手 愛国行進曲
昭和音楽大学の初代学長
登場人物 合併紛争
  堀内敬三1897~1983  神田区鍛冶町  「浅田飴」の堀内伊太郎の三男
日大音楽科
音楽批評誌『音楽と文学』岩波書店を創刊
     小林愛雄 田黒元雄 大田黒元雄 野村光一 菅原明朗
1923 マサチューセッツ工科大学修士課程機械工学を修了
1934 帝音・日大音楽科間の合併案
1936 『月刊楽譜』の発行名義人
1938日大教授辞任。
1938 松竹大船撮影所音楽部長辞任。10/31
1941 『月刊楽譜』、『音楽世界』、『音楽倶楽部』を合併して『音楽之友』を創刊11/
1941日本音楽雑誌株式会社(音楽之友社の前身)を設立、取締役社長
1947 日本音楽著作家組合(現:全日本音楽著作家協会
  小松平五郎
弟 小松耕輔(1884-1966 日本作曲家協会設立1928)
国民交響楽団を主宰
1930/4 箕作秋吉とともに新興作曲家連盟を創立
    (中心的参画に菅原明朗 )
1934 帝音・日大音楽科間の合併案 
1947日大芸術学部
  松原寛 1892 長崎県南高来郡有家村
第一高等学校
東京帝国大学英文学科
1916 京都帝国大学哲学科へ転入学
大阪毎日新聞社の学芸部記者
1921日本大学教授に就任して美学科主任教授
1924 美学科は文学科文学芸術専攻(のちに芸術学専攻)に改組
1929 音楽、美術、文学(純文学)、演劇、映画の五部門
    ピアノがうるさくて他の教室が迷惑する、
   神聖な大学の教場でモデルをつかって絵を書いているなどの非難
   文化学院(駿河台)の教室を借
   成立商業(神田駿河台鈴木町)移転後を借
1933 第一外国語学校校舎(本郷金助町)取得7/
1934 帝音・日大音楽科間の合併案
1934 芸術学園科長8/
1937 芸術科の学則改正認可「芸術科」誕生3/
1939 江古田に移転宣伝芸術科、写真科、商工美術科の三科を増設4/
1943 芸術科を理工系の専門部へ転換10/
   映画科を映画工業科、写真科を芸術科を理工系の専門部写真工業科、芸術科を「専門部板橋工科」と通称
1946 日本大学教授、芸術科長を休職 GHQによる教職追放政策3/