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『非水百花譜』20集(昭和4年〜9年春陽堂)


はす (蓮)

あぶらな (油菜)

あをつゞらふぢ (青葛藤)

しらん (紫蘭)

ふぢ (藤)

おしろいばな (白粉花)

そめゐよしの

くまがひさう (熊谷草)

つるれいし (蔓茘枝)

さざんくわ (山茶花)

なし (梨)

つりふねさう (釣船草)

つはぶき

ふよう (芙蓉)

ほていあふひ (布袋葵)

はぎ (萩)

こんぎく (紺菊)

さるとりいばら (猿取茨)

うめばちさう (梅鉢草)

くさふぢ (草藤)
 
乍然、其出来上つた写生図は実際、実物を写生する時の私の眼の記録であつて、私の実物に対する心の印象そのものではない。私の写生図を展げて見る場合に、私にのみ与えられる恵は、其実物を深く味わつた時の印象を、再び呼び起こしてくれる私の記憶であるのであります。故に、この出版された図譜は、私以外には私と同し程度の興趣や印象を得られるわけはありません。同時に芸術品として、見て戴く積りは無論ありません。古来から沢山ある花卉画譜類と云う意味で、何等かを世に提供すると見れば、私としても、多少心の安らかさを覚えるわけではあります。若し自身の写生図と他人の写生図とを同程度に扱ひ得る人があるとすれば、その人は心の盲目です。参考書の意味に理解の無い人と言ひ得るでせう。私が既に獲得した花卉の情趣や其命は、かうした出版物で、世に提供する方法を持ちません。世に多くの植物画が、只単に植物学者のみの参考資料であつて、概して片弁細枝の部分的写生に流れ、我々画家が常に其物足りなさを感じて居ること。世に多くの花鳥画譜が、あまりに其流派的の筆意に拘泥して、其実態を攫んで居ないこと。などに対して、聊かでも、本図譜が何等かの意味を持つとすれば、私の満足は此上もありません。