内藤頼博 |
|
1908年 | 3月12日東京市四谷区内藤町に生(明治41) 信州高遠藩主内藤子爵家の第14代当主. 父:子爵内藤頼輔 1877-1944 |
1930年 | 大学在学中に高等文官試験司法科に合格 |
1930年 | 東京帝国大学法学部を卒業 学習院の同窓会である桜友会の理事就任 -1932年 |
1932年 | 東京地方裁判所予備判事 |
1933年 | 木戸幸一が、華族会館に二荒芳徳伯爵、浅野長武、内藤頼博23歳、佐藤、入江相政、明石元長と会 学習院の現状につき其の真相を聴き、改革の意見を交換 [内藤頼博の理想と挫折] [] 『木戸幸一日記』桜友会学生部の初代学生部委員 |
1934年 | 木戸幸一が、内藤頼博、明石元長其他3氏から、桜友会の改革につき意見を聴く |
1941年 | 牧野虎雄アトリエ |
1944年 | 東京地方判所6部裁判所「帝国美術学校」調停成立12/26 判事内藤頼博 |
1945年 | 牧野自宅が「多摩帝国美術学校」復興の在京教授の集会場 9/10 |
1947年 | Alfred Christian Oppler 日本司法省側の担当者として新憲法に基づく各種の法制度に取り組む 内藤頼博判事ら日本人法曹は、占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、 給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創った 司法省民事局第三課長として裁判所法の改正にたずさわる |
1952年 | 広島高等裁判所長官 |
1957年 | 最高裁判所の家庭裁判所調査官研修 初代所長。横浜、東京家庭裁判所長を歴任 |
1961年 | 第038回国会 法務委員会 [裁判所職員定員法の一部改正] 最高裁判所長官代理者 |
1969年 | お東騒動 |
1971年 | 『終戦後の司法制度改革の経過 : 事務当局者の立場から』司法研修所 |
1973年 | 名古屋高等裁判所長官を退官65才 弁護士となる (定年は70才) |
1975年 | 多摩美術大学理事長 -1991年 多摩美術大学名誉理事長 |
1979年 | 多摩美術大学学長 -1987年 |
1980年 | 学習院桜友会の2代会長 -1987年 |
1986年 | 『自由人近藤綸二 : 一法曹の生涯』 |
1987年 | 第22代学習院院長 -1993年 |
1989年 | 桜升会 学習院桜友会 |
1990年 | 『日本立法資料全集』別巻92終戦後の司法制度改革の経過,93,94 |
1991年 | 『私たちの住んでいる国』学習院教養新書2 法の支配ということ |
2000年 | 92歳亡 12月5日 |
2000年 | 学習院と内藤家の合同追悼式 12月21日(木)午後1時よりが青山葬儀所 |
|
||||||||||||||||
| ||||||||||||||||
|
内藤新宿 1919内藤新宿1丁目 『創作の思ひ出』岡本綺堂 新五左衛門 鯨の大八 |