真下信一
1906 京都府福知山市生まれ
京都府立一中 同期に湯川秀樹
第三高等学校 武田麟太郎と親交
京都帝国大学文学部哲学科 同窓に戸坂潤
大学院に進学
1930 翻訳『イヒテの無神論論争とカント哲学 リッケルト』 岩波書店
1933 滝川事件のときには院生代表
院修了後 同志社大学勤務、のち教授
1935-1937 雑誌『世界文化』に執筆 中井正一が創刊(1935-1938のフランス人民戦線の機関紙『Vendredi』に倣う)
中井正一、新村猛、久野収、武谷三男、真下信一(筆名:秋田徹)、和田洋一、禰津正志、冨岡益五郎
1939 治安維持法違反の容疑で検挙(京都人民戦線事件)
戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言 実践的唯物論、主体的唯物論
名古屋大学助教授、教授
1946 民主主義科学者協会に所属
1948 『新しき世代のために』 塙書房 『実存と現実』 白日書院
1950 学苑 昭和25年10月号『時局と学生』
1969 多摩美術大学 教授 学部長(1968 石田英一郎 学長の就任と急逝)
1970 多摩美術大学 学長 学長選挙当選候補者の高田忠に替わり学長就任
日本学術会議会員
針生一郎による学長停止訴訟
1973 村田晴彦による不正入学訴訟
1974 学長解雇 1975.2.27 第75回国会 文教委員会
学長地位保全訴訟
東京地裁調停により多摩美術大学解雇
1979 著作集全5巻 青木書店
1985 逝去
守屋典郎
筆名は野口八郎
真下信一の義弟
1907-1996 東京出身。本籍・岡山県小田郡矢掛町。
父は第11・12代岡山市長、衆議院議員の守屋松之助
東京帝大卒。
1930年弁護士を開業。
1932年共産党にはいる。
1938年人民戦線事件などで検挙投獄。
戦後、民主主義科学者協会の設立に参加。
1949-72年日本学術会議会員。
戦中にかかわった紡績産業を分析,「紡績生産費分析」をあらわす。
著作はほかに「日本資本主義発達史」など。
1975年2月20日多摩美術大学 真下学長事件の会合