渡邊泰亮 妻:渡辺はつ江

1916年 新潟師範 土田杏村(佐渡出身の在野の哲学者)は 2級先輩
1921年 文化学院講師
1922年 上越線が長岡より堀之内村まで開通8月 親睦団体「響倶楽部」の記念事業として魚沼夏季大学 北越新報社が後援
1923年 新潟県南魚沼郡伊米ヶ崎村 校長
     県視学 学務課首席属
     12月 八海自由大学 校長
     新潟新聞12月17日記事「南魚沼郡における民衆運動として計画中の八 海自由大学創立委員会を伊米ヶ崎小学校において開催した」
1924年 「中山晋平佐藤千夜子音楽会」伊米ヶ崎小学校 新潟県魚沼市虫野38
     八海自由大学は、伊米ヶ崎小学 校で5回、六日町小学校・普光寺・ 大浦佐藤清之丞宅が各1回
      
      

1926年 首相官邸で「木崎村小作争議」の実情説明 6月 (日本農民組合 活動家 浅沼稲次郎)

1936年 新潟県西蒲原郡巻町の尋常高等小学校校長
     北と村田に衆議院議員選挙新潟一区の情勢を分析 1/4 2/20開票当選
     上京 多摩帝国美術学校 創設学校経営 主事
     05/27 八王子区裁判所が帝国美術学校吉祥寺校舎の使用許可。
         留守の祖國会員 最上が北に通告、渡邊泰亮主事と生徒が駆つけ
1939年 支那の要人の子弟20数名を教育。芦花公園近辺の宿舎 陸軍参謀本部の依頼
1941年 「支那の少年は語る」大日本雄辯會講談社
     
1943年 多摩帝国美術学校 繰上卒業式

1952年 「白象会」結成 魚沼市小出郷の洋画研究グループ 渡辺泰亮、新木独郎、星譲一、松原修司
1955年 小出町議会議長
1962年 逝去

2000 年 新潟日報「教育が輝いた時」10月21日 
     進学したくてもできない、学びたくても学べない人が多かった 時代に、
     人々が自分たちで学びたいことを学ぼうと開いた民間の 学校があった。
     民間有志が草の根的な社会人教育を目指し、大正 から昭和の時代に開かれ「自由大学」の名称で呼ばれた学校がそ れである。
     大学といっても専用の建物があったわけではない。既存の小学 校の運動場や寺、民家などを使って講義は行われた。
     授業も今の 学校のように通年で行われたわけではない。年に1、2回、農閑 期に開かれ、期間も長くて5日程度だった。

     [自由大学運動]土田杏村 イギリスのプロレット・カルトの運動の影響
     「人文学報」82号1971年 東京都立大学 森山茂樹 [魚沼,八海両自由大学の成立と経過] .
     「自由大学研究」3号1975年 4号1976年
     「小出町文化財資料」1号1977年 「小出町歴史資料集」1集1981年