内藤頼博 子爵 

1907年(明治41)3月に東京、新宿に生まれ、
1931年に東京帝国大学法学部を卒業。
その後、東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任し、裁判官を退官。
1973年弁護士となって活躍していました。 
1975年から1991年まで多摩美術大学理事長
1979年から1987年まで多摩美術大学学長
    多摩美術大学名誉理事長
1989年から1993年まで第22代学習院院長を務められました。
2000年12月5日(火)に亡くなられ92歳、親族の方々による密葬が行なわれた後、
2000年 12月21日(木)午後1時より学習院と内藤家の合同追悼式が青山葬儀所にていとなまれました。
本学、学習院、内藤家に所縁のある方々以外に日本法律家協会、高遠町他からも約1,000名の出席者があり、
内藤名誉理事長の生前の人柄がしのばれる式となりました。
1970年代の社会情勢は、大学紛争が拡大し大変不安定な状況でした。
多摩美術大学も八王子キャンパス移転をめぐり学園紛争が勃発、学内にはバリケードがつくられ、建物が壊されるという状態でした。
授業が再開しても対立は続いていたため、学長代行・理事長として赴任した内藤名誉理事長が、内紛を収拾したのでした。
リベラル派の名判事といわれた法律家としての毅然とした姿勢、
信州高遠藩子孫にして元子爵である威厳のある人柄は学内のみならず学外からも尊敬されていました。



霞ヶ関ビル建築記録 華友会館

内藤頼輔

内藤頼直

 

『創作の思ひ出』岡本綺堂 新五左衛門 鯨の大八
 これは大体は史実に拠つたものでありまして、享保三年(或は四年ともいふ)の頃、四谷大番町に屋敷を持つてゐる四百石の旗本内藤新五左衛門の弟に大八といふ道楽者があつて、常に新宿を遊びあるき、とかくに喧嘩買などをして土地の者に嫌はれてゐたのですが、結局その土地の信濃屋といふ旅籠屋(即ち遊女屋で、こゝらは旅籠屋の名儀になつてゐるのです)の奉公人等に打擲され、さん/"\の体になつて屋敷へ帰つて来ると、兄の新五左衛門は非常に立腹して、すぐに大八に腹を切らせてしまつた。昔の武士気質のまだ残つてゐる兄と、当世風の柔弱に流れた弟と、この対照に其時代の姿が窺はれます。
 新五左衛門は弟の首を大目付松平図書頭の屋敷へ持参して、右の始末につき弟大八は成敗した。この上はわたくしの知行を差し上げますから、内藤新宿を永代お取潰しを願ひ奉ると申出でたのです。その願ひは聞き届けられて、新五左衛門の家も潰され、内藤新宿も潰されてしまひました。新五左衛門はどうなつたか判りません。恐らく親類の屋敷にでも身を寄せて一生を終つたのでせう。


前新宿はなぜ宿次駅を廃止されたのか。当局により申し渡された表向きの理由は、大名の参勤交代も旅人も少なく、それほどの必要もないから、撤廃する、というあっさりしたものであった。
 しかし真の理由に関しては、三田村鳶魚翁等によるきちんとした考証がある。それは、江戸のような大都市圏の暗娼(私娼)所在地(岡場所)には警察事故が著しく多くて、当該官吏はその繁に堪えない。飯盛女のために頻々と起こる警察事故の処理に追われて、ようやく道中奉行が眉根の皺を増やし、ついに廃駅を発令するにいたったものである。前新宿は、実にこの暗娼のために滅亡したのである。
 警察事故に類する典型的な「鯨の大八」事件というものが伝えられている。正徳・享保の頃(1715年頃)、新宿の旅籠屋に出入りして金銭等をゆする不良侍がいた。旗本の次男坊だが、ご多聞にもれぬ二・三男の冷や飯食いである。兄は、四谷大番町四百石両御番内藤新五左衛門というれっきとした旗本である。
 この大八、三尺何寸かの長刀を差し、鯨雪駄というものを履いていたので、「鯨の大八」と呼ばれて、新宿の旅籠屋から蛇蠍のように忌み嫌われていた。
 享保三年(1718)、この大八が、信濃屋という旅籠の飯盛女にからんで、ごたごたを起こし、信濃屋の雇い人と喧嘩になり、多勢に無勢で、滅茶滅茶に打ちのめされて、顔も身体も血と痣だらけになって、ほうほうの体で自宅へ逃げ帰った。兄の新五左衛門がそれを知り、非常に立腹して、大八に腹を切らせて、御家人山田浅右衛門に申しつけ、首を打たせ、その首を大目付松平乗国方へ持参して、「しかじかの始末につき、弟大八を成敗つかまつった。この上は私の家の知行をお上に差し出し、私は浪人いたしますので、爾後永久に内藤新宿をお潰し下さるようにお願いつかまつる。」と強談した。これで内藤新宿の宿次駅の役割は廃止された、というのである。
 鳶魚翁は「前新宿の滅亡は、他に反証のない限り、大八事件を原因とすべきであろう」と書いている。