田中次郎吉 高愚

1890年 1月12日生まれ新潟県
1909年 上京 新聞配達夫、人力車夫、土方人夫
1914年 満州大連 支那、満州、朝鮮 10余年
1925年 加藤高明首相暗殺嫌疑
1926年 「昭和日々新聞」発行副社長兼編集長
1927年 小説「魂はおどる」白鴎社
1928年 「一東社」創立社長
1932年 「寮舎」建設、警視総監丸山鶴吉の会の幹事長
1933年 「財団法人遺芳寮」寮監 援護者丸山鶴吉が理事長

       左:鬘をつけた鶴吉 右:高愚          入寮式の高愚(前列左)と鶴吉(後列右)

1935年 「珍彦鉱業社」創立社長 鉱山売買 開発直営製錬所建設 うづひこ(槁根津彦)

1946年 引揚帰国
1948年 1月31日「造形美術学園」設立者 瀧井三郎から変更 杉並区天沼3-647
1949年 2月 逝去 
1949年 10月「武蔵野美術学校」設立者名を息子に変更

「武蔵野美術大学を造った人びと」武蔵野美術大学出版局 2014年3月.
「田中高愚こと次郎吉について」高橋陽一.

田中誠治 田中高愚の子 
1924 広島
1949 10月「武蔵野美術学校」設立者 校長事務取扱 25歳 早稲田卒
1951 8月 「準学校法人武蔵野美術学校」理事長27歳

1986 61歳        1999 [胸像] 脇谷徹

瀧井三郎
1913年 生まれ 奈良県北葛城郡
1933年 5月10日 朝鮮中央日報「結城金山衝突事件 關係者續續檢擧」
1938年 4月 支那
1939年 山西炭鉱服份有限公司 用成課長 (中華人民共和国)(2006『頼小子』監督:韓傑年)

1943年 6月 朝鮮 田中高愚の弟子
1943年 新興鉱業株式会社取締役 結城金山経営(朝鮮民主主義人民共和国 平安北道 朔州郡)

中朝国境の西側の鴨緑江沿い、河口に近い中国・丹東の対岸の新義州に「王子製紙」中流に巨大な水豊ダム、
集安対岸の満浦に「銅精錬工場」、図們上流に鉄鉱山「茂山」があり「、三菱鉱業が開発した世界最先端の鉱山」

1946年 引揚帰国
1947年 2月 金原から経営譲渡「極東造型学園」設立者 3月「造型美術学園」に名称変更
1948年 1月31日「造型美術学園」設立者名を田中高愚に変更

→丸山鶴吉

1935年 「多摩帝国美術学校」 後援会長
1951年 「武蔵野美術学校校長
1956年 逝去