設立時の役員 | 学校職員 →教職員一覧 →学生一覧
|
|||||
理事長:國澤新兵衛 工学博士 |
1864年 江戸 土佐藩幡多郡奉行 国沢四郎右衛門好古の三男 1889年 東京帝国大学工科大学土木学科卒業 欧米に派遣 1906年 南満州鉄道株式会社創立 技術系理事 1913副総裁 1914年 児童感化教育「家庭学校」北海道分校 設立協力 1917年 南満州鉄道株式会社 総裁 理事長 1920年 衆議院議員政友会 1928年 朝鮮京南鉄道 会長 1934年 大同殖産株式会社 社長 1935年 「多摩帝国美術学校」 理事長 1937年 日本通運株式会社初代社長 1943年 「青山学院」 理事 院長事務取扱 1953年 89歳
|
|||||
学外理事立花良介 |
1884年 福岡県築上郡椎田町 内田良平の親戚 杉山元の中学校後輩 1914年 孫中山が[中華革命黨航空學校]を開設 聘請日本人、[坂本寿一]、星野米藏、立花了觀、尾崎行輝 1915年 カーティス飛行学校分校(カリフォルニア州サンディエゴ港) 東洋飛行学校(福岡雑飼隈)、日本飛行機製作所(大阪市北区野田町)を設立 カーチス・ジャイロ複葉機(ジャイロJ空冷式回転星型7気筒60馬力) 1916年 中国に渡り、飛行学校教官 少将 1917年「中国亜細亜時論 」8月 航空界の現状を論じて識者に訴ふ 1923年 八千代生命が東亜キネマを設立 常務取締役 1925年 映画配給会社の一立商店を設立 1927年 阪東妻三郎プロダクション株式会社 専務取締役 1930年 内田良平と大日本生産党結党準備打合 黒龍会顧問 1934年 『滿洲國產業開發と夾皮溝金鑛』工業日本社『工業日本』第2巻7月號 大同殖産株式会社専務 發起人代表 日本側資本家の投資問題調査隊代表者 1935年 『非常時と滿洲に於ける國防產業開發の重要性』工業日本 第3巻1月號 1935年 「多摩帝国美術学校」 理事 1942年 北京市の大陸鉱業 取締役 大岡鉱山の取締役社長 1945年 国敗れて、杉山元帥夫妻に献ずるお棺も節だらけ申訳がない」9/12 1950年 第008回国会 通商産業委員会 第6号 11/17 新潟県の小滝炭鉱の鉱業権者 立花良介 1950年 第008回国会 通商産業委員会 第14号 9/29 1965年 81歳没 2/10 |
|||||
学外理事:近藤清吾 |
1885年 牛込区市ヶ谷田町に生. 1909年 金沢医学専門学校 卒業 1917年 金沢医学専門学校 教授 1922年 文部省在外研究員 1928年 飯田橋病院 開院 1928年 「理想的設備の飯田橋病院 近藤博士の事業」4/21越後タイムス 1935年 「多摩帝国美術学校」 理事 1937年 「飯田橋病院」 7/11越後タイムス 1943年 多摩帝美名簿 出征中 |
|||||
|
||||||
校寳:米山梅吉 |
1868年 江戸 東京英和学校(現:青山学院) 1920年 日本初のロータリークラブ 1924年 三井信託株式会社創立 1935年 「多摩帝国美術学校」 校賓 1937年 緑が丘小学校(現:青山学院初等部)設立校長 青山学院交友会会長 1938年 貴族院議員に勅選 1946年 78歳 1969年 [米山梅吉記念館] 実行はこれに照らしてから(ロータリークラブ 四つのルール) 1 真実か どうか 2 みんなに公平か 3 好意と友情を深めるか 4 みんなのためになるかどうか |
|||||
後援会長:丸山鶴吉 [福山誠之館] [] . . |
1883年 広島 松永下駄の創始者:丸山茂助の四男「日本はきもの博物館」 1919年 朝鮮総督府警務局事務官 1922警務局長 1924年 「在鮮四年有余半」松山房 1925年 田中次郎吉を「鶴吉の会」幹事長、「遺芳寮」寮監とする 1926年 東京市助役 1929年 警視総監 1931年 貴族院議員に勅選 1932年 「市郡併合問題に就て五百萬都民に訴ふ」大衆自治社 1934年 「自伝:50年ところところ」大日本雄辯会講談社 1955復刻 1935年 「やさしい警察論」新政社 1935年 「多摩帝国美術学校」 後援会長 1936年 「家庭読本」大日本雄弁会講談社 1939年 「中南米の旅 残された世界の宝庫を訪ねて」明治書房 1939年 「中南米より帰りて」拓殖奨励館 拓殖パンフレツト 1940年 「高島先生教育報国六十年 伝記・高島平三郎」編 大空社 1988 1943年 大政翼賛会事務総長 1944年 宮城県知事 1944年 公職追放 1946年 配下の田中次郎吉の弟子瀧井三郎(北朝鮮結城金山経営)が引揚帰国 1947年 瀧井三郎が帝国美術学校 南隣地の経営を名取金原から買収し、 田中次郎吉に名義変更。 1951年 追放解除「武蔵野美術学校」校長 1956年 逝去 |