村田芳太郎 1903/7/6「出生届」.
1935/5/19 村田光蔵「読売新聞」
1935/6/30 1935/8/24 1935/9/8「読売新聞」
1951「日本乃日本人」
村田晴彦 1953/9/25 名変更届 学校法人多摩美術大学 理事
村田與四兵衛 1973/8/2 村田家墓石「村田與四兵衛七代目 晴彦」
1903年 | 村田芳太郎7/2生 母:村田チエ 川原田町大字諏訪町44(出生届7/6 戸主祖父:村田清太郎) (母チエは 菊池糸松の長女 1886生) |
1909年 | 母チエが 清太郎の養子:寅吉と婚姻届11/1 |
1917年 | 県立佐渡中学 酒井億尋と同郷 走高飛運動中にアキレス腱を負傷 |
1920年 | 認知届9/5 父:伊藤小太郎 川原田町大字諏訪町127 母チエが 養父村田清太郎 養母スエと離縁届 |
1922年 | 中央大学予科 1928年 法学部卒 弁護士 山田辰之進の書生(佐渡郡 加茂村字羽吉出身) |
1929年 | 北れい吉に呼ばれて 帝国美術学校の吉祥寺校舎を見学 |
新潟の下宿で、常香夫人と出会い | |
1931年 | 婚姻届1/12 妻:山口マキ(父:無記 戸主母:山口マサ 若松市北小路町112) 長女出生2/14 豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷864 |
1932年 | 家督相続届5/9(旧戸主 清太郎死亡) |
1933年 | 長男出生1/10 渋谷区代々木上原1315 |
1934年 | 北れい吉より電報 村田芳太郎が北れい吉の替わりに美術学校を経営 多摩帝国美術学校の設立基本金の借入を五島慶太に申し入れ 東横と 上野毛校舎 土地5400坪の契約 |
1935年 | 校舎建築費を東横から借入 今井兼次設計(東横が清水組施工の建築費を代払い) 建築費借入のための頭金15000円を調達 (ダンサー川畑文子の父親より借入5000円 (佐渡出身の酒井億尋(美術コレクター 荏原製作所)より借入 3000円 (牧野虎雄の絵画を満鉄本社に売却3000円 牧野虎雄の絵画を永見某に売却1000円 (残金は東横が猶予3000円 多摩帝国美術学校 認可9月6日 北れい吉が隣地田中貞治宅の樹下にて始業式挨拶 出席者:井上忻治 牧野虎雄 杉浦非水 吉田三郎 佐々木大樹 大隅為三 森田亀之助 渡辺素舟 鈴木誠 学生数:40名 学生監:村田芳太郎が吉祥寺校舎の教具を搬出 |
1936年 | 北れい吉の選挙違反の身代わりで未決監 佐渡を数回往復(第19回衆議院議員総選挙新潟一区 無所属当選) 母チエ 逝去 3/14 財団法人多摩帝国美術学校 設立(徴兵猶予の専門学校となる) 東横から基本金30000円借り入れ(寄付金:利付貸金 年8分)東横常務が理事長、重役が理事 |
1937年 | 次男出生1/14 杉並区井荻2-33 2.26軍法会議の秘密漏洩のため潜伏(磯辺浅一の獄中手記写真を小笠原長生中将に手渡す) |
1938 | 三男出生2/7 世田谷区上野毛町272 |
1939年 | 上海旅行 |
1940年 | . |
1941年 | 次女出生1/20 世田谷区上野毛町272 東横債務の代わりを条件に、成田千里が校長に登記したが、入金なしで1週間で辞退 繰上卒業式11/ |
1942年 | 北れい吉の選挙応援で佐渡に(第21回衆議院議員総選挙新潟一区 翼賛政治体制協議会非推薦当選) |
1943年 | 三女出生11/12 世田谷区玉川瀬田町5 61 釜山 浦項 平壌 奉天 新京 ハルピン 満州 旅行 昭和医専校長の上条秀介より20万円借入(東横へ地代と利息元金 牧野画代 今井設計費を返済) 繰上卒業式(佐渡出身の在野の哲学者:土田杏村の後輩:渡邊泰亮主事) |
1944年 | 海老名一雄と徳富蘇峰を伊豆山に訪問 |
1945年 | 三木清の消息をたずねて特高部を訪問 日本漁業組合の資材部長と財務部長 海外同胞引揚促進運動 社会党結成準備事務所 牧野虎雄の四谷の自宅で、多摩帝国美術学校の在京教授が集会 9月10日 多摩帝国美術学校 溝ノ口校舎で学生募集を再開(元日本光学軍需工場の2棟800坪を借受) |
1946年 | GHQ天然資源局水産部アダムス水産課長と佐渡へ同行 水産部長フィードラと資材課長ポーランドを佐渡に案内 多摩帝国美術学校『学校工場』を運営 三越高島屋へ売り込み 村田晴彦が幣原内閣の内務大臣三土忠造に、軍事工場跡の借入れの斡旋を依頼 溝ノ口の木造三階建600坪と木造平屋200坪を大蔵省国有財産部から借用 荏原製作所羽田工場青年学校から教具を貰い受ける 酒井億尋 元海軍の軍需工場から焼けた旋盤ミーリング盤セーパー盤ボール盤を払い下げ 中目黒の木工工場から丸鋸盤 帯鋸盤電動鉋盤機械鑿盤を購入 学生は木造3階建の2階を学生寮で生活し、学校工場でアルバイトをした |
1947年 | 四男出生7/28 新潟県佐渡郡佐和田町大字河原田諏訪町44番地 財団法人多摩帝国美術学校 学内理事 昭和医から斎藤監事と上条 石井理事、学内から杉浦理事長(軽井沢在) 新たに学内理事を追加 井上 村田 今井 藤原理事 |
1948年 | 野口英世銅像設置運動 |
1950年 | 財団法人多摩美術短期大学 理事 (監事 : 池留三 佐渡郡 河崎村野崎出身 ) |
1951年 | 学校法人多摩美術短期大学 理事 |
1952年 | 多摩美術大学後援会幹事 |
1953年 | 学校法人多摩美術大学 理事 名変更届9/25 村田晴彦 |
1954年 | 「本学の創設から現在に至るおもいで」美術大学新聞 |
1957年 | 300坪購入 810,000円 川崎市宮前字三ツ又325-5 畑(1反歩) 1965年 所有権移転 9/20 売却 |
1960年 | 「多難だった学校設立」美術大学新聞 本館落成記念 6/ |
1961年 | 学校法人多摩美術大学 理事長 1961北死亡北の金婚式 |
1963年 | 北先生と選挙戦を偲ぶ「追想記」北れい吉先生三回忌法要会 欧州米国視察 世界の美術大学見学 木馬イーゼル導入 |
1965年 | 逸見梅栄からの文書偽造訴訟 (51国会文教委員会) 逸見宅の立退訴訟 村田晴彦「創立の沿革」 八王子寮地鎮祭 「事件の真相」村田記述6/10 土地問題9/20 杉浦非水葬儀8/24 費用負担 |
1967年 | 学園紛争収拾のため、理事長を退任 学生運動に関する建白書 |
1968年 | 学校法人多摩美術大学 理事長に復帰および学長事務取扱に就任 石田英一郎が学長就任七ヶ月で急逝のため、 『総合美術大学構想』石田ビジョン |
1969年 | 「多摩美術大学の現状」村田 1/25 入院手術 夫人が看護疲れで逝去 学園紛争中のため公表せず 多摩美術大学 機動隊導入ロックアウト 評議員 理事 教授を総入替 (61回国会文教委員会) 『紛争の経過ならびにその後の学内問題』12/1 |
1970年 | |
1971年 | 長女夫婦を大学事務より排除 |
1972年 | 観劇 民藝『日本改造法案 北一輝の死』 滝沢修主演 松本静張 東横劇場4/4-26 高橋士郎お伴 |
1973年 | 「村田家の墓」建之8/2 七代目村田興四兵衛 晴彦 |
1974年 | 真下学長と山脇教務部長を解雇 (75国会文教委員会) 多摩美術大学 定年規定制定 高橋史郎委員 学校法人多摩美術大学 理事長退職 東京地裁調停により(内藤頼博理事長および学長代行の就任) 村田晴彦口述『多摩美術大学沿革史』印刷『想出の期』3/ タイ王国旅行 タイ王国に移住計画 羽田空港に江上波夫を見送り:高橋士郎撮影 |
1975年 | 7月16日 72歳 北海道への旅支度をして、上野毛駅前で散髪、帰宅後横になったまま起きてこなかった . |
善宗寺 佐渡市河原田諏訪町105 村田與四兵衛七代目 晴彦 |
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ドッと笑うてたつ波風の 荒き折節義経公は 如何しつらん弓取り落とし しかも引き潮矢よりも速く 浪に揺られて遥かに遠く 弓を敵に渡さじものと 駒を波間に打ち入れ給い 泳ぎ泳がせ敵船近く 流れ寄る弓取らんとすれば 敵は |