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  小林慶太  [青木村] [私の履歴書]

1882年 長野県小県郡殿戸村 父・菊右衛門は熱心な法華経の信者
1899年 長野県尋常中学校上田支校 入学 16歳
1902年 旧制松本中学 入学(現・長野県松本深志高等学校)20歳
    青木村の小学校の代用教員
1906年 東京高等師範学校英文科 卒業
    四日市市立商業学校 英語教師
1907年 東京帝国大学政治学科の選科入学
    第一高等学校の卒業資格試験に合格
    法学部本科に転学
    富井政章男爵邸 加藤高明邸 家庭教師居候
1911年 東京帝国大学 卒業29歳
    高等文官試験に合格 農商務省に入省 鉄道院に移る

1912年  五島慶太  五島万千代と結婚 (久米民之助の長女・五島惣兵衛の養女 )
1920年 武蔵電気鉄道常務に就任
1922年 荏原電気鉄道の専務を兼務
1924年 蔵前の東京高等工業学校を大岡山に誘致 関東大震災で被災 1929年東京工業大学
1926年 新丸子地区の土地分譲
1927年 菊名地区の土地分譲
1929年 二子玉川線として自由ケ丘 - 二子玉川間を開業 大井町-二子玉川(10.3km)を全通
沿線人口の増加策として「住宅資金貸付」開始
日吉台の土地を慶應義塾大学に寄付

[東京横浜電鉄沿革史 序]然し、昭和四年頃から同八年頃へかけての世界的財界不況時代に於て、目蒲電鐵は略順調の業績を繼續し得たが、東横電鐵は如何ともなし得なかつた。其收入は更に増加せず、借入金の利子は拂はねばならず、借入金の利息を拂へば、一文の配當も出來ないのみならず、毎期赤字決算であつた。他方自動車業を開始して收入の一部を補ふ等鋭意業績の向上に努め、且つ地方鐵道法による政府の補助を仰いでゐたに不拘、年五分の配當も辛うじてなすと云ふ狀態であつた。私は眞に告白するが、この頃の苦境を考へると、二度と再び孫子の代迄鐵道の新線建設はさせまいと決心した位であつた。 然しながら斯かる苦境にあつても將來の社運に囑望し、諸學校の誘致或は百貨店の經營等、沿線開發の源となるべき諸施設を建植した。謂はゞかうした潜勢力の涵養が今日をなすに至つたのである、
1931年 綱島温泉の浴場経営
東京府立高等学校を八雲に誘致。都立大学
1932年 クリュッペルハイム東星学園 上野毛  守屋東 1942年大東女学校
大倉精神文化研究所 大倉山
1933年 池上電気鉄道買収 市ヶ谷刑務所に送致
1934年 東横百貨店創業 渋谷  [杉田]
五島慶太の盟友牛塚虎太郎(1929帝国美術学校認可)がとの間で東京市長選贈収賄の嫌疑で、警視庁に検挙 半年間留置所
帝国美術学校 五島慶太に基本金の借入申し入れ 土地5400坪の契約 建築費の借入
五反田の武蔵高等工科学校誘致。大岡山に第二校舎。東京都市大学尾山台校舎。

1935年 目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄が分譲地の販売促進策として社員に分譲地販売奨励金の支給を開始
丸子橋完成 片側一車線
玉川電気鉄道を傘下に収める
多摩帝国美術学校 上野毛  上野毛校舎建設 
    東横が建築費を代払い 清水組施工 今井兼次設計 
    多摩帝国美術学校 東横への頭金15000円の調達
     1)ダンサー川畑文子の父親より借入5000
     2)佐渡出身の酒井億尋より借入 3000
     3)牧野虎雄の絵画を満鉄本社に売却3000
     4)牧野虎雄の絵画を永見某に売却1000
     5)残禁は東横が猶予3000)
1936年 東京府青山師範学校に資金援助を行い下馬に誘致 東京学芸大学
財団法人多摩帝国美術学校 徴兵猶予専門学校設立のために基本金基本金30000円を借入
    東横の常務丹羽武朝がを理事長に、旧常務が松浦由太郎を理事に就任
    
(1941 東横借金の返済肩代わりを条件に、成田千里が校長に登記したが、入金なしで1週間で辞退)
    
1938年 東横商業女学校 上野毛 設立 東横学園 現東京都市大学等々力校舎
玉川電気鉄道を株式買収 吸収合併
三越の買収を断念
1939年 目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄を合併
1942年 京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併
1943年 多摩帝国美術学校 昭和医専校長の上条秀介より20万円借入、東横へ地代と利息元金を返済 
1944年 京王電気軌道を合併
1959 


1951年 空中電車ひばり号