杉浦非水 旧名:白石朝武(つとむ) 本名:杉浦朝武 俳号:杉浦翡翠郎
1876年 | 愛媛県松山市に生まれる。 日本画家を志し四条派の画家松浦巖暉に師事 |
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1897年 | 東京美術学校 日本画選科 入学 川端玉章に師事 在学中に図案家へ転向 洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受ける。 |
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1901年 | 東京美術学校 日本画選科 卒 大阪三和印刷所に勤め 図案部主任 同社図案部解散のため退社。 雑誌の表紙などでアール・ヌーボー風を発表し話題を集める。 |
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1904年 | 島根県立第二中学校教諭へ赴任 結婚 非水28歳、 翠子18歳 非水隣家の出渕豊保の立会(次姉 てるの嫁ぎ先である東京赤坂) →杉浦翠子 →福沢桃介 |
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1905年 | 東京・中央新聞社に入社。 | |||
1908年 | 三越呉服店の嘱託デザイナーとなり『みつこしタイムス』の表紙を担当する。作品:三越ポスタ | |||
1910年 | 中央新聞社を退社 三越呉服店の図案主任に抜擢 | |||
1911年 | 雑誌『三越』を発刊。 | |||
1912年 | 光風会を創立 中沢弘光、山本森之助ら6名 | |||
1912 1917 |
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1913年 |
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1921年 | 日本美術学校 図案科講師。カルピス社 顧問 |
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1922年 | ヨーロッパ旅行 |
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1926年 |
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1927年 | 『アフィッシュ』創刊 月刊ポスター研究雑誌 「地下鉄開通ポスタ」 制作 春光社アングラ社 |
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1929年 | 帝国美術学校 図案科長に就任。 (多摩美術大学と武蔵野美術大学) 大蔵省専売局(現日本たばこ産業)嘱託 タバコのパッケージ図案 『非水百花譜』20集(1929-1934春陽堂) |
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1937年 1934年 1935年 |
全日本商業美術連盟を結成、委員長に就任。 三越を退社。 多摩帝国美術学校 校長・理事・図案科主任 →学長挨拶 「自伝60年」雑誌「広告界」→多摩帝国美術学校事情 L'art est la vie me アートは私の人生です 10/19土 毎日新聞夕刊6段組「山田順子」 |
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1936年 | 「デゼグノ」1号発行「多摩帝国美術学校図案会」デザイン研究雑誌 「図案家生活30年の回顧」
「新井泉送別」 19381940 |
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1943年 | 多摩帝国美術学校 繰上卒業式 |
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1947年 | 多摩造形芸術専門美術学校 理事長 |
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1952年 | 「私學振興」表紙デザイン 6月29日創刊の雑誌 隔月刊 私立学校振興会発行 | |||
1953年 | 学校法人多摩美術大学 理事長 |
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1955年 | 芸術院恩賜賞受賞 | |||
1958年 | 紫綬褒章受章 | |||
1960年 | 翠子没 75歳 | |||
1963年 | 多摩美術大学 図案科をデザイン科に改称 | |||
1965年 | 8月18日没 午後7時30分 藤沢市 89歳 8月24日 青山斎場 大学葬 費用負担 正常化連盟訴訟 |
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