大正の自由教育   →世界の大学制度  →官学と私学

19世紀末から20世紀の初頭にかけて,欧米の教育界ではいわゆる新教育運動がさかんになり,
日本では大正時代にその影響がおよび始め「大正自由教育」と称される教育運動に発展した。
大正の新教育運動を担ったのは私学であった。
[改造思潮に基ける新学校の主張と其実際 1923」
大正時代の各種学校2000校 在学者20万人 意義 目的 修業年限 教員資格 教育課程 入学資格の明確な規定はない

多摩帝国美術学校の設立関係者を赤文字で示す。

1918年 『日本美術専門学校』
校長:紀淑雄  豊多摩郡戸塚町 []

「本校ハ理ト実トノ両方面ヨリ美術ノ製作観照及ビ批評ノ三能力ノ開発養成ヲ以テ目的トス」
「芸術は幾多の過去を背景とし、現代を其の生地とする以上は、其の過去の芸術に対する研究其の物が、我々に必要なる」

近代思想概論:金子馬治
日本画実習:山内多門
西洋画実習:妻のゑい

1919年 杉浦非水 図案科  1919/4-1922/11
1920年 建畠大夢 教授
1926年 中村岳陵 教授
1927年 小池新二 講師、民間美術学校計画
1936年 紀淑雄 逝去 山枡儀重 校長 衆議院議員
1940年 田中泰裕 四代校長 早稲田大学文学部哲学科1941年 板橋区練馬向山町へ移転
1945年 閉鎖

1928年 円鍔勝二 入学 1932年卒業 1941年講師
1942年 宮崎進 繰上卒業 1981年多摩美大教授
日本画科 川崎小虎 矢澤弦月 太田徳雨 穴山勝堂
     福田豊四郎 村山森人 金井敬陽 菅原勇記
油画科  大久保作次郎 小島善太郎 川島理一郎
     高野美眞 猪熊弦一郎 小城基
     宮本三郎
林武 改井徳寛 西田武雄 高橋亮
     櫻田精一 豊田逸二 大津鎭雄
図案科 古田達賛 吉田謙吉 宮崎健治 朝影禮三 坂口英一
彫塑科  吉田久継 長谷川栄作 平塚運一 向山峽路
女子部  三岸節子 大久保百合子

田中泰祐 早大文学部卒 日本美術史 西洋美術史
荒城秀夫 早大文学部卒 西洋美術史 仏語
神絢一  早大文学部卒 文化史 英語
青柳正廣 早大文学部卒 倫理 心理学 美学 教育 英語
薄金兼次郎早大文学部卒 芸用解剖 色彩論
菅原又七郎早大文学部卒 西洋歴史
平井政男 早大文学部卒 日本史 西洋史 修身公民
庄司大造 早大理工学部卒建築概論
足立一郎 早大理工学部卒図学
内山義郎 早大文学部卒 国語 英語
高橋道利 東京美術学校卒図学 用器画 数学
向山孝  日本美術学校卒教練及体操
岩瀬米次郎陸軍戸山学校卒教練及体操
   
1921年『文化学院』美術部
校長:[西村伊作] 神田駿河台2丁目5

「学校令によらない自由な学校」日本で最初の男女共学
アメリカのイェール大学 慶應義塾大学モチーフ
学監 与謝野鉄幹 晶子夫妻 石井柏亭 三木清
美術部 石井柏亭 山下新太郎 有島生馬 正宗得三郎、
中川紀元 赤城泰舒 棟方志功 ノエル・ヌエット
1925年 大学部創設
1930年 美術部長に石井柏亭
文学部長に菊池寛 女学部長に与謝野晶子 就任
1936年 佐藤春夫、文学部長就任
1939年 帝美から転校の李仲燮が山本方子と出会

1926石井柏亭

1943年 強制閉鎖
    「自由思想は戦時体制に合わない」強制閉鎖
     校舎は連合軍捕虜収容所となる
1946年 再開 美術科 日曜美術科 1949デザイン科設立

   
1921年『自由学園』 学園長:羽仁もと子
北豊島郡高田町雑司が谷 []
山本鼎、石井鶴三、深沢紅子、清水多嘉示
美術教師(笹川和子、山室光子)
1934年 北多摩郡久留米町に移転
1935年 男子部を開設

1911年ー20年間 平福百穂「婦人之友」表紙画
   
1921年『自由大学運動』
土田杏村 指導 渡邊泰亮
長野県上田 飯田 松本 新潟県 魚沼 八海 福島 前橋
イギリスのプロレット・カルトの運動の影響
   
1929年 『太平洋美術学校』
校長:中村不折 下谷区清水町
太平洋画会研究所を拡大 東京府の認可学校