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杉浦翠子 旧姓:岩崎翠(いわさき みどり) →岩崎兄弟 [川越の人物誌]

  

1885年 埼玉県川越市大字川越 岩崎紀一、サダの三女として生
1886年 次兄の桃介が福沢諭吉の婿養子となる。
1887年 父が死去
1888年 母が死去
     祖母ミキに育てられるが祖母も死に
     川越高等小学校
     姉てるの嫁ぎ先、赤坂の出渕豊保方に身を寄せる。
     女子美術、国語伝習所などに学ぶ。
1904年 図案画家杉浦非水と結婚 19歳恋愛結婚 非水28歳
1913年「貴婦人に與ふる書」拝金主義を痛烈に批判 兄桃介の物質主義に反抗し、貧しくとも精神的詩的に生きようと
1915年 北原白秋に入門
1916年 「アララギ」に転じ、斉藤茂吉、ついで古泉千樫についた。
1923年 赤彦門下との確執から白秋系の歌誌「香蘭」に移ったが、
1933年 この山の活けるを思ふ月明に炎を孕む煙見えつつ 「短歌至上主義」を創刊。
      
1936年 職を求めて村より村に移住する鮮人土工の群れゆく信濃路

    歌集に『寒紅集』『藤浪』『みどりの眉』『浅間の表情』『生命の波動』、歌論を加えた『朝の呼吸』
    小説『かなしき歌人の群』
   「アララギ」の女流として情感にとんだ歌を詠んだが、のち、主知的で硬質な作風へと転じた。
    戦後、翠子の歌も立直り、新しい境地に達し、「日の黒点」「生命の波動」「一百光年集」などの詩集を書き、
    非水と共に詩画展を2、3回

1946年 杉浦翠子の敗戦百首歌集『目の黒点』謄写印刷
     雉子鳴けばすなはち雉子が食べたしと飢ゑたる人の耳目はあはれ
     アメリカ兵につと笑ひて煙草を見せる与ふるにあらず売らむといふなり
1949年 米を洗ふ五本の指の水づきに冬こそ来れ爪くれなゐに
1951年 婢が帰るといへば泣いてゐしそんな涙は時代が殺した
1956年 男子(おのこ)らと詩魂を競う三十年みちの小石も我が歌に泣け

    「自伝」刊行

1960年 病没

短歌結社 藤浪短歌会in Mixi  月尾菅子2007年07月11日

  

  


甥:岩崎勝平の絵 1905-1964