→多摩美術大学の歴史 →高橋士郎 

第2章 帝国美術学校と帝国音楽学校  吉祥寺時代 (6年間)  吉祥寺校地の沿革 多摩美と武蔵美


北れい吉

村田晴彦

杉浦非水

牧野虎雄

郷倉千尋

今井兼次

三木清

井上忻治
1928
昭3
 
「帝国音楽学校」第一次
 
1929
昭4
「帝国美術学校」 →公文書
校長 北れい吉 学生数 100名
校主 木下成太郎 出資 30.000円
設置者 杉浦非水 1,050円
   牧野虎雄 700円
   北れい吉 615円
第一回教授会 10/15 敷地2,500坪
東京市長 牛塚虎太郎認可 10/30
→校歌 北原白秋
→吉祥寺の沿革
→登場人物
→教授一覧
→学生一覧
「武蔵野音楽学校」設立:福井直秋
一次帝音の学生128名が転入


「ムンダネウム」世界文化センタ計画
朝鮮博覧会

大井町線 上野毛駅開業 五島慶太
太宰治『学生群』弘前高校同盟休校
「太平洋美術学校」
「女子美術専門学校」
1930
昭5
学生募集広告「祖国」12月号   
木下出資30,000円を清算 01/29
(内7,000円は20年償還 胸像肖像を寄贈
金原が親戚より15,000円無期限借用
(利子日歩2銭2厘)
北が米山より8,000円借用(年7分)
「帝国音楽学校」第二次
北が父兄代表就任 9/
校長:有馬頼寧
革新的な制度の運営
アートセンタースクール
傾向映画[なにが彼女を]鈴木重吉
世界大恐慌

中村岳陵 木村荘八 牧野虎雄 中川紀元
「六潮会」
1931
昭6
  北が評議委員就任 10/ 満州事変
前進座創立
鈴木信太郎「東京の空」
1932
昭7
北れい吉 渡米 7/30 ハーバード客員教授
ロサンゼルスオ リンピック観戦
その後、カナダ・ メキシコ・欧州を歴訪
北れい吉が 庶務会計を名取に一任
  (校舎増築費を金原より金融)
金原省吾「帝国美術学校創立事情」
北が 校長就任6/
北が校長代理を鈴木鎮一に一任
解雇騒動 12/5
「財団法人 大日本映画協会」[kindai]
「国民精神文化研究所」文部省
「新建築工芸学院」川喜田煉七郎
「肢体不自由児 東星学園」守屋東
牧野虎雄「旺玄社」
アリス川畑文子来日
[銀座] [YouTube] [Island Empire]
ハクスリ「すばらしい新世界」
ソ連中央委「社会主義リアリズム」
「クランブルック美術学院」
1933
昭8

北れい吉 帰国 8/2
 事務職務を三分 在籍394名
   教務:金原省吾 庶務:名取堯 会計:村田芳太郎
常任評議会:川崎小虎 牧野虎雄 杉浦非水 吉田三郎 井上忻治
「昭和研究会」三木清 近衛文麿 
三木清「学芸自由同盟」滝川事件
北れい吉 「ゼンチンと語る」
「映画国策樹立ニ関スル建議案」
名取洋之助「日本工房」
杉浦翠子 「短歌至上主義」
「白牛会」
ドイツ「帝国文化院法」9/22
国民啓蒙宣伝大臣ゲッベルス
米国「連邦美術計画」失業美術家救済
シラパコン大学開設
1934
昭9
「帝国音楽学校」合併騒動 12/
「日本大学専門部芸術学園」
東京高等音楽学院 大塚 三室戸敬光
金原日記 9/1-12/31
「国防の本質」陸軍省新聞班
「大日本映画協会」
「足利尊氏論」逆賊賛美
新図案家会結成在籍460名
南津電気鐵道株式會社解散
杉浦非水
が三越退社

レニ映画「意志の勝利」
ユング「元型」
マンフォード「技術と文明」
MoMA「機械美術」展

1935
昭10


専門学校昇格 上野毛移転   →多摩美と武蔵美の歴史
移転推進派
北れい吉 杉浦非水
学生
.
移転反対派
金原名取 交友会 父兄会
1月 昇格問題を学生に報告1/29
  (金原日記 1/9-4/30
2月   「帝国音楽学校」全員退学 2/8
「帝国高等音楽学院」声明書 職員有志
「帝国高等音楽学院」声明書 学友会
「帝国高等音楽学院」鈴木鎮一 2/14
「帝国高等音楽学院 」経過報告同窓生
帝国美術学校でビラ撒布 2/21
「帝国音楽学校」廃校 2/31
3月 東横と移転交渉 03/15    
4 月 入学式 04/13
東京横浜電鉄との契約を完了 04/18
2年生以上に事情説明 講堂 04/25
各科2名の代表生徒の意見を質す
40名を退学処分にする方針
洋画科学生の移転反対集会
洋画3年40名学生集会 04/22 13:00
生徒代表20名の要求 04/25
 1)教務係太田 新学監佐藤 交替
 2)教員大宮 中島 助手丹慶 復職
生徒代表20名 井上会見 04/28 10:00
学生大会妥協案諒解 04/30

新聞記事
5月
退学処分
学友会解散告示 除名53名停学103名
1学年の学科授業を2週間中止
名取金原に解職書を書留郵便発送
会議室で父兄会を開催 経緯説明05/19
正門に木柵設置 05/21
評議委員会05/23 14:00
木下成太郎に書簡郵送 提案
統制部委員が二分案依頼 05/01
名取の学校二分案提示
学生同盟休校 05/16
田無署本田北駐在所に警戒本部
卒業生事務所設置 野澤武美40名

田無署 官私服数十名派 静観
校友会の移転反対運動 05/17
父兄会の移転反対運動 05/18 京王パラ
地元町民の移転反対運動 木下に電報
喫茶店カーピ 5/25 25 27

授業開始 武蔵野学園校舎を臨時校舎
    図案科彫刻科120名 5/28
    実習室内定 日大付属 神田区
        (金原日記 5/1-7/31
6月
無届欠席者を徴兵忌避者通達 06/11
「学校紛争の顛末」
を発行06/21
太田と学生 盟休事務所襲撃23:00
 田無署は器物毀棄罪で太田処断
校舎釘付封鎖 06/27
正門に木札「所有者北」暑中休暇を繰上
木下あて教授団通告6/29 7/5
図案科学生総会 120名 京王 06/27
移転派学生が絶縁状を送付
実習授業開始 6/03 仮校舎 280名
   西荻窪駅前通の映画館富十館
父兄会が内田秀五郎府議に調停依頼
「同盟休校事情報告」
06/24
校主から校長罷免の電報 06/24
府庁に校長の更迭の手続06/25
北が学校明渡に20,000円を要求
  木下校主が10,000円と回答
反対派が絶縁状を送付
        (金原日記 8/1-8/31
東京民事地裁 口答弁論開始 07/10 12:00
原告 : 木下成太郎 (弟: 木下三四彦) 被告:北 れい吉

移転先の上野毛 用地




閉鎖した吉祥寺校舎

移転反対派 杉並中学で入学式 07/04
西洋画 日本画 師範 1-200名 07/04 15:00
図案 彫刻 50名 07/05 14:30
(金原日記 9/1-9/30
授業開始 200名 09/02
多摩帝国美術学校 認可 09/06出願 08/26
多摩帝美の生徒声明 09/10
授業開始 千駄ヶ谷の学苑社 09/20
編入学生64名  新入学生115名

上野毛校舎2棟 500坪 完成10/20
上野毛校舎1棟 210坪 完成10/30
小美濃が金原と借地契約300坪 09/18
南隣接地に仮校舎を移築
東京女子高等師範学校の震災復興校舎


(金原日記 10/1-12/5
杉並中学より引越 11/11
6周年創立記念式 11/23
移転学生 64名  土方重巳
残留学生105名 郡山三郎
繰上卒業 90名  小館善四郎
他校転校130名 李仲燮
佐藤勝康に吉祥寺校舎売買を委任 9/18
『女子商業学校』 看板09/18
「日芸」が帝国美術の買収を断念 09/24
『拓開学術大陸國策研究所』看板10/08
小美濃が北に借地契約の破棄を通告
原告提訴不備を論難10/21

「天皇機関説」事件2.18
「国体明徴訓令 教学刷新評議会」文部省
「帝国美術院」改組 文部大臣 松田源治
台湾博覧会





「アニマ」矢崎博信
「JAN」Jeunes Artistes Nouveaux

「動向」矢崎博信 山鹿正純 報告絵画
「表現」浅原清隆 大塚耕二 小田正春
    野尻三郎  長谷川宏 森堯之
「T映」矢崎博信 浅原清隆


「ジュンヌ・オム」「絵画」瀧口修造

1936
昭11
留守番役が八王子区裁判所へ 05/20
八王子区裁判所が校舎の使用許可 05/27
東京区裁が校舎を封印 05/30
東京地裁が校舎の使用許可公示 07/25
留守番役の宮口勝次郎失踪 07/28
瀧口修造が中心となって難波田龍起、末松正樹、大塚耕二らとともにアヴァンギャルド芸術家クラブを結成。
本館で夏季美術研究を開始 07/27
在学生 278名
    (朝鮮 22名 関東州 1名
     中華民国 8名 台湾 5名 シャム 1名)
「デゼグノ」創刊
杉浦非水「自伝60年」
北 第19回衆議院議員当選 02/20
北「日本国策映画研究所」
北 映画『国防全線八千粁』


2・26事件 北一輝 陸軍皇道派
日本工作文化連盟 全日本商業美術連盟
陸軍従軍画家協会
「教学刷新評議会」 奉安殿データベース
ベンヤミン「複製技術時代」
ナチス+日本合作映画『新しき土』
映画「ゾンビの暴動」日本軍
1937
昭12
財団法人多摩帝国美術学校
徴兵猶予認可

理系の徴兵猶予
 
「帝国芸術院」設立 文部省
[愛国行進曲]
『満州映画協会』設立 李香蘭
「文化研究会」三木清
「国体の本義」「教学局」文部省
「日本大学 法文学部 芸術学科」
ドイツ「退廃芸術展」
日中戦争 [Floral Japan]
自由美術家協会
1938
昭13
  本館で夏期講習会 (松山祐利入学)
管理組合 理事長:木下
理事:天野頼義 内田 小美濃 太田真八郎
  佐伯唯一 金原 監事:池内明志 名取
1学年 44名 (朝鮮14名)12/
「東邦音楽学校」三室戸為光
文部省主催の展覧会を再開
大日本陸軍従軍画家協会 陸軍省
ウエルズ「世界の頭脳」
ナチ映画「民族の祭典」 
チューリングマシーン  
1939
昭14
    (斎藤博之入学)
第二次世界大戦
ポ−ランド侵攻 [NY Fair] [Dali]
ボンベが『エニグマ』解読
グリンバーグ「キッチュ」
海軍省軍事普及部
[太平洋行進曲]
「映画法」芸術の醇化発達
『第一回聖戦美術展』陸軍美術協会
『靖国の絵巻』陸軍省情報部
1940
昭15
  大審院判決1/28   (7回卒業式)
「皇紀2600年に寄せる祝典曲」 
南洋神社(パラオ)北京神社
東京オリンピック返上
[大政翼賛の歌]
1941
昭16
大東亞戦争 敗戦国の名称 1)調停委員 案 11/05
委員長:塩野季彦(理事長:五島 校長:塩野)
 
内藤子爵邸に牧野虎雄アトリエ
大平洋戦争 戦勝国の名称
国民学校令芸能科図画工作
[ソビエト大祖国戦争]
1942
昭17
専門学校令の改正  実業学校令の廃止   原告 木下成太郎 死亡 
アメリカ軍戦略事務局
ABC 電子計算機
[社會運動の状況]内務省
1943
昭18
多摩帝美が昭和医大より200,000円借入
東横へ地代と利息元金を返済
2)調停委員会和解
調停により法制局長官に経営譲渡
海外鉱業協会理事長 安井に校舎売却
分配 北 70,000円 金原名取 65,000円
3)戦時特別調停委員会
 1/18,2/15,3/7,3/17,8/23,8/31.9/1
 9/27,10/12.10/27,12/16,12/20
4)戦時特別調停委員会 和解成立 12/20
東京地方判所6部裁判所 判事:内藤頼博
帝国美術学校設立者:安田誠一郎
金原が南隣地を東京逓信局講習所に賃貸
「Our Enemy the Japanese」
シラパコーン大学美術学部
1944
昭19
上野毛校舎徴用 海軍「レーダー研究所」
学徒出陣  解散式生徒35名 02/29
「大東亞工学院」
開校式 04/10
生徒9名編入(松山祐利が陶芸指導)
「帝国美術学校」消滅
 
陸軍美術協会04/03 園鍔勝三
台湾神宮 関東神宮
1945
昭20
上野毛校舎が米軍焼夷弾空襲により焼失 敗戦
大東亞省は勅令により廃止 8 26
 
原子爆弾投下8.6
GHQ幕僚部民間情報教育局
オーウエル小説『Animal Farm』