帝国美術学校 同盟休校 関連新聞記事 →帝国美術学校 →登場人物 →多摩美術大学の歴史
移転反対派の取材記事を、各社の府中版が報道
昭和10年4月24日 水曜日 学内闘争協議 帝国美術学校3年生40名 山林に密集を追わる 北郡武蔵野町帝国美術学校(校長北昤吉氏)洋画科3年生村本良三(26)郡山三郎(28)の両君が司会者となり3年生40名を22日午後1時から東京女子大学裏山林内に集め同校に対する不平、不満を吐露して対策を協議すべくまず村本君が開会の辞を述べ続いて郡山君が意見を発表せんとした際田無署の大房、中野、弓削、齋藤の4巡査が駆けつけ無届集会を理由に解散を命じたところ学生中には警察官なら手帳を出せと喰ってかゝる者もあって検束者を出したかくて同夜司会者である村本郡山両君を寄宿舎より検挙、目下取調べを続行している |
昭和10年4月24日 水曜日 帝国美校騒ぐ 2名検束さる 武蔵野町吉祥寺帝国美術学校(校長北昤吉氏)洋画科3年生中の反校長派の学生40名は22日午後2時頃、学校から北方の山林中に集合してアジ講演会を開催 専門学校昇格問題に対する学校当局の不誠意、帝展系教授による偏重主義の改革等の不満を鳴らしていたところ田無署から係官出張、即時解散を命じ、同夜9時前記司会者2名を自宅から召喚検束し無届屋外集会の廉で厳重取調べ中である |
昭和10年4月24日 水曜日 閥の争い 学生の不穏を生む 吉祥寺帝国美術学校 22日午後2時頃武蔵野町吉祥寺帝国美術学校洋画科3年40名が付近の杉並区西荻窪女子大裏の山林に集合し学校当局に対する不穏計画協議中を田無署で探知し直ちに私服警官数名が現場に急行解散を命じ首謀者郡山三郎君(28)村本良三君(26)の2名を検束留置した、同校はかねて校長北昤吉氏経営の姉妹校東京市世田谷区帝国音楽学校問題等で1部教授及び学生等の北校長に対する反感が高まり過般不穏ビラの撒布事件あり爾來学生側と学校当局との間に暗黙の睨み合いが続けられ頗る険悪な空気が漂つていたが最近反校長派と見られていた洋画科担任中島教授が突然解雇され後任に帝展系の佐藤教授が採用されたことに端を発し俄然形勢悪化し前記洋画科3年生一同は恩師中島氏の復職、経営方針を改革して学生の校内自治制確立等外数項を決議して学校当局に要求し若しきゝ入れられなかつた場合は全校生徒に呼びかけて同盟休校を企てるべく協議中未然に解散を命じられたものである |
昭和10年4月25日 木曜日 善処に努む 美術学校問題 昨報、北群武蔵野町帝国美術学校洋楽科3年生40名の屋外集会問題は24日も引きつゞき田無署で司会者村本良三(26)郡山三郎(28)の両名を取調べ中だが一方学校当局では狼狽して北校長は2年生以上各科生徒を講堂に集め創立当時から今日に至るまでの同校の経営並に専門学校昇格遅延等の事情を約1時間半に亙って説明し洋画、日本画、彫刻、師範、研究の各科から2名宛の代表者を選出せしめ別室で生徒の意見を質して善処に努めた |
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昭和10年4月28日 日曜日 不穏学生は結局退学か 帝国美校騒動 [既報]武蔵野町吉祥寺帝国美術学校では数日前から紛争を続けているので所管田無署では引続き警戒中である 事の起りはこの新学期に当り学生間に信望のあった英語大宮健太郎、佛語中島健蔵、洋画丹慶俊2の3教授を馘首した(こ)とと教務係太田耕二氏等に対する不満からだが結局前記40名に対しては校則を紊す者として退学処分にする方針のようである |
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昭和10年4月30日 火曜日 生徒監の更迭と 2教授の復職要求 帝国美術校生強硬 既報、北群武蔵野町帝国美術学校の問題は生徒代表2名が28日午前10時同校で教師井上忻治氏と会見、生徒側では現教務係り太田耕二氏と今回生徒監として入校した佐藤勝康両氏を替えて貰いたいと要求した、井上教授は学生が人事行政に言及しては困ると要求を1蹴、学生側はさらに今回退職した英語の大宮健太郎、佛語の中島健蔵、洋画科助手丹慶俊二三氏の復職を要求、井上教授は校長に進言すると回答、会見2時間余にして別れた |
昭和10年4月30日 火曜日 昇格問題は考慮 帝国美校騒動 [既報]帝国美校騒動に就いては学校当局として捨て置けず28日同校講堂で学生側から2名の代表者を出席せしめ、学校並に学生間にもっとも信望のある井上教授が会見し約2時間にわたり、学生側の要求に対し種々協議したが この校長排斥、馘首職員復職の2項は1蹴され(た)が学校昇格その他については期待に副うべく考慮するとの言明を与えて会見を終ったが何れ学校としても理事者会を開らいて対策を協議し何分の措置を講ずる模様である |
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昭和10年5月16日 水曜日 断乎・首謀者退学へ ついに職員側最後手段を協議 俄然学生尖鋭化す 「美術学校騒動」 既報、北群武蔵野町帝国美術学校学生が退職教授の復職を要求すると同時に専門学校昇格促進を学校当局に要請した問題は職員側が頗る強硬で16日午前0時から職員会議を開き首謀学生の退校処分せんとしつゝあるのを知った学生は絶対反対を叫び15日各学生統制委員会を開き形勢悪化しつゝあるので佐藤学生監其の旨を田無署に通知した、かくて同署高等係りは直ちに同校に出張、学生間の行動其の他を調査、目下警戒中 |
昭和10年5月16日 木曜日 きょう處分決定 帝国美校生の紛擾問題 [既報]武蔵野町吉祥寺帝国美術学校洋画科3年生の校長排斥、退職教授復職の要求は学校側が強硬の態度を示して要求の殆どを拒絶して1先1段落を告げたが学校当局では禍根を今後に残す事を恐れてこの際問題の不穏学生を處分する事に決定 北校長の病気回復を待って今16日職員会を開いて協議する事となった、首謀者23名は退学又は停学処分に付する方針らしく成行きは注目されている |
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昭和10年5月17日 金曜日 紛糾ついに発火点へ 学生側は戦備成り 籠城でガン張る 帝国美術校の盟休 [夕刊既報]学校から約3丁程離れた武蔵野町吉祥寺5〇〇番地に学生代表事務所を設け同盟休校準備に入った同町帝国美術学校生は内部委員、外部委員を決定して内外の連絡をはかり各方面との交渉に備え内部委員二階堂顕蔵外22名、外部委員柏谷正太郎外2名を中心に停学並に退学処分を受けた生徒父兄に対して学校側から通知があった場合は速時返送されたいと葉書に印刷、16日発送した同時に左記声明書を関係各方面に発送して籠城準備も確立したなお盟休参加生は16日夜まで350名に達した、田無署では引きつづき松田は、今成両高等係りを中心に警戒に努めているが学校並に学生共に態度強硬で盟休長引くと見て同署では同町本田北駐在所を警戒本部とし鈴木部長以下10余名をもって警戒しつゝある[写真は盟休生の事務所と炊事振り] 「学友会も解散」 別項、2学年以上の学生盟休により同校では16日から向う2週間紛争に関係しない1学年各科の学科教授を中止し実習教授のみとした、一方除名者513名と停学処分103名を出した為め現在の学友会に支障を来す所から学友会をも解散することゝなり其の旨16日午後告示した、同校は目下混雑を極めている 「学校乗とりの策動」……北校長“断”を語る 右につき北校長は語る 学生が僕を排斥するなど生徒としては恩を知らぬ者のやり方です、本日除名及び停学処分を断行したのも皆な理由のある生徒です、生徒は専門学校昇格云々を叫びながら本校が東横電車沿線に移転すれば直ちに昇格出来るものを移転に反対するなど何が何んだか解らぬ、これ等の不穏学生を出した原因は学校乗り取り策を講じている職員にあるその職員も断乎として処分することになったのです 「声明書」 昭和6年4月「本校近日専門学校昇格の予定」と明記せる募集広告により本校に入学、父兄もその主旨により入学を許諾せり、然るに昭和10年5月現在に至るも其の具体化を見ず 其の間学生は代表を送り度々学校当局に専門学校昇格の実現を懇願したるも学校当局は其の都度今にも成立するが如き回答を与えながら遅延に遅延を重ね未だ実現を見ず 師範科より無試験検定認可について盡力方陳情したるもその方法を講ぜず既に2回の卒業生を無資格のまゝ出すに至れり 吾々は本校設立の趣旨に賛意を表し此新興の学府に大なる期待を持ちて入学し爾来新時代の要求に適応する教育方針に依り諸先生の熱心な指導と尽力と吾等学生の求学心と相俟って外に誇るべき家庭的の校風を確立した、然るに現今の状態は誇るべき美風は創立の趣旨に反する教育方針により攪乱された 本年4月創立当初より犠牲的に尽力した先生の功績を省みず制度変更或いは財政緊縮に名を借り、正当なる順序も踏まず解職又は辞職を行った 今度東横電気軌道株式会社沿線に本校移転の計算あるも吾等の郷土たるこの地を去りて他に移転すべき要を認めず 最後案として東横沿線移転の場合は校長と意を異にする学生に対し1、2教授に之を委任し平穏に教育を継続せしめんとの提案あり穏当なる方法として学生は賛成せるも校長は何等理由なく之を1蹴した 右の事実によりその責任者たる学校長に対しその引責勇退を慫慂したるが却って赤化運動の如き逆宣伝をし純真なる学生を弾圧し保証人に対し不穏分子云々の通知書を発送し校内を暴力化さんとしつゝあり。吾々は、もはやこれ以上の隠忍を続ける能わず遂に休校の止むなきに至った 右声明す 「学籍除名52名」 学籍除名処分を受けた者左の如し 2学年(13名)長谷川宏、佐藤忠夫、浅原清隆、小田正春、村上義巳、山口英哉、大塚耕2、野尻三郎、板坂勇、香取巌、岸敏郎、松岡継男、渡邊武 3学年(13名)内海九郎、盬田3郎、東原徹、齋藤達雄、日高大三、庄司正、古賀秀1、境田繁、邦山三郎、村本良三、矢崎博信、横山千勝、山鹿正「“驚く校長”」盟休学生側の憤慨 又盟休生徒の籠城している事務所を訪えば 我々は校長の独断主義を排斥する、何等理由なく創立以来の恩師を解職せしめたことや多数の処分者を出したことまた専門学校への昇格近しと生徒を欺いた等実に不埒だ、驚くべき校長だ 辞職し解職となった英語大宮健太郎、佛語中島健蔵、洋画科助手丹慶俊三氏の復帰、専門学校へ昇格等全部が実現しなければ吾々は結束をとかない |
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昭和10年5月18日 土曜日 停退学処分を拒絶 学校側・さらに2職員を馘る 美術校の騒動拡大 帝国美術学校の同盟休校に対し学校当局では16日夜評議員会を開き学生を煽動したという理由で教務主任学生監名取堯、庶務主任金原省吾の両氏を解職した、両氏は今後盟休学生と行動を共にすることに決し17日は校内で校友会を開いて対策を講じた、なお保護者会では18日午後6時から新宿3丁目京王パラダイスに大会を開き協議する一方盟休生は17日早朝前日発表された処分学生に対し協議の結果左記拒絶書を北校長に提出した [拒絶書]16日発表の校長独断的なる除名及び停学処分は吾ゝは拒絶す 卒業生は学生を支持 美術校生の盟休に対し第1期第2期卒業生40名は東京市杉並区井荻町3-1榎本大2郎方の空家を借り受け卒業生代表事務所を設置盟休生に応援、さらに卒業生より成る校友会では午後1時から学校内で大会を開き 創立以来の校風を維持すること停学、除名に対し不穏当なことを排すること 以上を協議、決定し更に午後3時から同所で卒業生教職員合同懇親会を開き今回の盟休に対し双方の意見を聴取したがその際両者の議論沸騰した 別項、馘首された2職員は北校長排斥を叫び盟休生並に卒業生と行動を共にし置く迄北校長の排斥 処分学生の取消し等に努めることとなり今迄盟休に参加していなかった1学年及図案科生も参加する形勢にあり問題は1段拡大すると見られている【写真は籠城盟休生の中食】 |
昭和10年5月18日 土曜日 両者頑強に対立し 遂に持久戦に入る 民家に籠城し炊出し戦術 帝国美校盟休事件 武蔵野町吉祥寺帝国美術学校の学校騒動は、盟休生徒側は委員昇格の洋画科5年生二階堂顕蔵君始め加盟生徒一同が17日同町500番地に借受けた、美術家向きのアトリエ風に出来た民家に月15円の家賃を2ヶ月分先払し気前のいい所を見せ、馴れぬ手つきで炊出しをするなどすっかり 準備を整えて持久戦に入り「親父はひどく心配しているらしいんですが最後までやります」と元気を見せている、又同日午後2時から学校のすぐ近くの民家で卒業生の集まりを求め生徒側の主張を述べて了解を求め同時に援助方を懇請した、これに対し学校側は「1歩も譲らぬ」と頑張りいよいよ持久戦に入った、一方事態を憂慮した父兄は今18日午後6時から新宿の京王パラダイスに集まって善後策を協議する等学校争議の道具立てはすっかり揃ったが、例によっての学校 騒動の要素の外に今度は美術界の諸潮流が錯綜してはいつて居り又東横線の交通資本が沿線に学校招致を目論んで働きかけている模様もあるので今度の事件がどんな風に解決するか同校の死活問題であると同時に私営学校の行く手に大きな問題を投げかけている【写真は籠城して飯を喰っている盟休生徒達】 学園を荒す者は果していずれか 双方の主張を聴く 学校側 結局問題は思想的なものに帰着する、昭和7年初め北昤吉校長が外遊し8年2月帰朝する間公務は1部の教授によって専断され本校の美風である美術の各潮流に超越して勉強できる習慣が乱れ、実技が極度にうとんぜられた、北校長帰朝後断然これを改革しようとしたことが1部教授の気に入らず、その上某々美術団体が校内にイデオロギーを盛った細胞組織の拡大に努めそれが北校長排撃の決議文にまでなって表われたので断然清水多嘉示、宮坂勝の両助教授、助手大貫悌二三氏と生徒52名の除名、生徒102名の停学処分となった、生徒側で騒いでいる昇格の問題は今年の夏中休暇に東横線上野毛駅付近に校舎の移転新築と同時に専門学校令の適用を受け同時に法人組織にもなることになっている 生徒側 学校側が在校生450名、盟休参加5、60名と見ているに対し、盟休生徒側は確実な在学生391名、内盟休参加205名だから勝利確実としているのも面白い、そして盟休生徒達は、美しい校風が壊されたのは北校長が帰朝してからで北校長は帰朝後 浅岡信夫氏の講演会を開いた 柔道家佐藤勝康氏を生徒監にした 学校の功労者丹慶俊二氏を解雇した(今年4月) 帝展系教授がさなきだに多過ぎるのに帝展推薦吉村芳松を迎えようとした 東横沿線への移転新築は同軌道会社の資本によるもので、これでは移転後生徒の負担が著しく増大する 1、現校舎は美術学生に好都合である 1、昇格については昭和6年以来だまされ通して来た 金原省吾、名取堯両教授の教務主任、学生主事を17日奪ったが両氏は学校を今日まで維持して来た恩人だ等の理由をあげているが学校当局は結局金原、名取両氏に今日までの出資に対し現校舎を与え学校は2分することになるとのデマも乱れ飛んでいる 「盟休学生を支持」卒業生代表も来援 帝国美術学校学生の盟休に対し17日朝に至り同校卒業生野澤武美君外40余名がかけつけ同町223の2階建空家を借受け「帝国美術学校卒業生代表者事務所」と大書した看板を掲げ午後3時から対策につき協議した結果盟休学生を支持することを申合せ更に左記声明書を発表し同問題の解決まで籠城し今18日から炊出しすることとなった一方洋画科4年生40名は18日午前11時から杉並区大宮前4ノ361中井宏方に集合今日までの経過を報告対策につき協議することになっている 声明文 本校創立当初の精神及び本校特有の校風を撹乱せる校長の独裁的行為に対して盟休に入りたる学生の趣旨を支持し極力良き解決のために努力せんとす |
昭和10年5月18日 土曜日 帝国美校騒ぎ 紛擾中の武蔵野町吉祥寺帝国美術学校生徒は17日学生盟休本部を吉祥時北10條小路に移し5、60名の代表学生が集合気勢を上げているが代表として2階堂顕蔵君ほか20余名が午前0時北校長を訪問今回の除名並に停学処分を拒絶するという意味の決議文を突きつけて引あげた、校友会も同様学校当局の今回の措置が不穏当であるとの決議文を校長並に評議員に手交した、父兄会は18日午後6時半から新宿の京王パラダイスに開会の予定であるが田無署では官私服数0名を派して警戒しているが学生側が合法的に行動しているので静観の態度をとっている |
昭和10年5月19日 日曜日 宙に迷う停退学処分 応援陣ガッチリ 美術校盟休持久戦へ 昨報、帝国美術学校の紛糾は学生側が除名、停学通知書を返送するや学校側は再び配達証明で逆送、これに対し学生側は二階堂顕蔵外5名の代表を挙げ校長代理村田光蔵氏に面会して突き返す等の騒ぎを演じさらに18日は午後6時から東京市四谷区新宿3丁目の京王パラダイス3階に父兄会を開き学生代表と卒業生代表が出席、学校当局糺彈の作戦を協議した、この反面盟休生応援に乗りだした卒業生は 統制部 大貫漁二、野沢武美、岡本治男、大久保實雄 情報、交渉係 平田俊三ほか12名 所内係 小松正利外5名 記録、文書係 藤田義本外2名 会計係 笹森圭 等の陣容を確定し18日左記声明書関係各方面に発送した [声明]本校創立当初の精神及び本校特有の学風をみだし独裁的行為をほしいままにせる校長並にこれを援助する者に対し不信任を以て盟休に入りたる学生の主旨を支持し極力これが良き解決の為に努力せんとす 日本画科卒業生一同 西洋画科卒業生一同 師範科卒業生一同 「無茶な手段」馘られた職員は語る 馘られた教務主任、学生監名取充氏は同校創立の功労者で18日同氏宅を訪へば憤慨して語る 生徒の処分について会議を開くから来て下さいと通知がありましたが私は教師として学生を処分することは自分の責任ですから出席しませんでした、所が横暴にも何等話なく昨日私に書留郵便をもって解職書を送って来ました、美術学校の経営者の1人ですそれを突然解職するというやり方です、こんな工合ですから学生420名の内図案科と1学年を除き300名の学生を処分するという無茶をするのです、校長は頑固一点張りで校長としてはどうかと思われる人です、で私は学校当局と一戦を覚悟したのです |
昭和10年5月19日 日曜日 昨日父兄会開催 もめる美校の盟休 帝国美校の盟休事件はますます尖鋭化し何時解決するとも予想のつかぬ状態となった、父兄会では昨18日午後6時4谷新宿の京王パラダイスの3階に市内近郊父兄の有志が集合しこれに盟休学生並びに卒業生等10余名も参加、学生側より盟休敢行に至った経過報告を聴取したが近く学校当局へ向って交渉を試みる事となっている、一方学校側では盟休以来休校のやむなきに至り、傍観しつゝあったが今19日午後2時から会議室に父兄会を開催し北校長より学生盟休に対する経緯を説明して諒解を求め学校当局としての態度、方針等を表明するものと見られている |
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昭和10年5月21日 水曜日 父兄代表ら押かけ北校長を猛攻撃 憤然・下級生も闘争へ 盟休なが引くに伴い事態益す険悪化しついに帝国美術学校は紛糾の渦の中に投ぜられ学校当局は一切外部の者や不穏学生と見られる者等の入校を拒むべく2日正門に木柵を設置、その右側に天幕張りの臨時守衛所を設置し2名の守衛を配し厳戒田無署では万一不穏の行動に出るのを憂慮して引きつゞき警戒中[写真は臨時守衛所] なお父兄会代表安部幸一郎氏は20日午後3時から武蔵野町の自宅に各父兄を招集、北校長との会見の結果を報告して今後の対策を協議し満場1致で北校長を排撃、盟休生を支持することに決定し「盟休さらに拡大」帝国美術学校挙げて混乱 帝国美術学校の同盟休校はついに1学年生413名も19日午前0時から武蔵野町(同校々友会員)藤原一郎氏方にクラス大会を開き北校長排撃に賛成左記決議をなし午後学校当局を訪い決議文を提出してこゝに1学年も盟休に参加を決定して委員を擧げ統制ある活動を開始した [決議] 我々西洋画、日本画科、彫刻科1年生は上級生に同意して自発的に行動を共にす 1学年生一同 なお20日右決議を各方面に配布した、これに対して学校側では19日午後2時から同校講堂に校長派父兄会を開いて種々協議中右父兄会の通知をしないのは不届きだと反校長派と見られる父兄川鯮名が押しかけこゝに激論となり学生処分の点に就て右は校長と教師の紛争を端を発したもので責任は校長と教師にあるにも拘らず策動された学生を処分するのは●(判読不能)れるも甚だしいなどと色をなして責め更に創立当初の関係から昇格問題等にも言及し北校長も困惑の体で『みなさんが私に学校を退けと言うならこの学校を壊して出資金の分配をする』と憤慨するに至った 「きょう府へ陳情」断乎・戦う父兄委員 別項、北校長の横暴を認め盟休学生支持に決した父兄代表は盟休学生の事務所を訪ずれ父兄、学生委員2名を執行委員に挙げ 帝国美術学校の問題に対する処置に関しては在京父兄委員に一切委任仕り候也 と言う委任状を作成、それをもって21日午前0時委員は府●前に集合、府知事、白戸学務部長外各部長を訪問、北校長排撃に関する陳情をなしさらに文部科省に陳情する予定である 「第2次声明」 1年生の盟休参加を見て益す団結を強化した学生は2日第2次聲盟書として 専門学校昇格問題 昭和6年4月近日昇格の予定として募集がいつになつても昇格を見ず吾々が事情を聞けば学生の不信を加へ最近では去る1月29日3月末迄に昇格をすると言明、3月末になると4月13日始業式迄には必ず昇格の手続をすると言いたるも13日に至り昇格どころが経営を他の人に移譲したと言明更に本校を東横沿線に移転すると言い甚しく困惑せしめた 教育上の問題 我等の誇りとする本校創立当初の教育精神及び教育方針を無定見に変更して我等を失望せしめ創立当初からの先生2名を解職師範科の募集を中止する等学校の将来に益す不安と疑惑を増大せしめた5月15日には何等父兄に●●又は通知もせず512名を除名、百4名を無期停学にした、我々が反省をうながすやこの運動は1部教師の煽動だと言う(以下略) を父兄其の他関係筋に発送した 「学校の移転」盟休尻目に愈よ決行 盟休を尻目に北校長は東横電気鉄道会社沿線上野毛駅前に学校移転の運動をつゞけまた同会社は土地発展上招致に努め敷地5千坪を提供校舎の建築専門学校昇格資金100,000万円を寄付するに決定したと伝えられ近日中まず植木其の他の移転に取りゝかり校舎は夏休中に運び9月の新学期からは上野毛の新校舎で授業を開始の予定であるとも伝えられている |
昭和10年5月21日 火曜日 洋画1年も盟休し 美校騒動は続く 学校移転は固執するも 校長の態度幾分軟化 [既報]帝国美術学校の学校騒動は盟休学生と学校当局が睨み合のまゝ抗争を続けて来たが、19日に至りこれまで中立傍観の態度にあった洋画科1年生40名も果然 西洋画科1年生一同は上級生の意志行動に同意し以て以後上級生と共に行動する事を決議せり(但し右決議は自発的なるものなり) 5月19日 本科西洋画科1年生一同 という声明書を発して盟休に参加したので盟休学生側では同日更に第2次の声明書を発表して気勢を揚げた、盟休学生父兄会でも今21日午前10時府庁玄関前に市内近郊父兄の代表者執行委員長陸軍中條阿部孝2郎氏外19名が集合横山知事をはじめ白方学務部長その他各係官と会見、北校長排撃の陳情を為す事になっている、これが為学校当局では従来の強硬態度を改め北校長も 東横沿線への学校移転は既に決定しているのだから変更は出来ぬが、除名、停学処分の学生に対しては父兄同伴で陳謝して来れば必ずしも復帰させぬ事はない と幾分軟化の色を見せているが、学校の移転は急速に実現させる意向らしく1両日中から移転地東横沿線上野毛の敷地へ植木類の移植に取りかゝる事となっているが、これ等によって事態はいよいよ激化するものと見られている 「洋画科生代表」昨日府学務課を訪問 帝国美術学校の学校騒動につき西洋画科生の代表池田俊1、二階堂顕蔵、赤木直梢、石川清の4君は20日午前府学務課へ二階視学官を訪い北校長の排斥を行った理由を述べ更に 西洋画科1年生一同は上級生の意志と行動に同意し以後上級生と共に行動をする事を決議せり と云う声明書を示し吾々はこの決議に基き北校長の勇退を希望するものであるが校長は益強硬の態度に出で父兄会の意見に更に耳を貸さぬから我々の意志を酌んで善処して貰いたいと陳情し二階視学官から生徒として軽挙盲動をなす事は不利であるからと懇説し尚校長に対しては既に出頭を求めて善処を警告してある旨を言聞かせ4名はそれを諒として引取ったが同視学官は語る 美術学校の問題は要するにお家騒動であって104名の無期停学52名の除名を出すなどという事は職員間の軋轢に基因して緊を生徒に及ぼすもので生徒が可哀想だから成るべく早く円満に解決し自分達の余憤から生徒に弾圧を加える事はよくないから処分した生徒は寛大に取扱う様北校長に説得したがお家騒動を府が買って出る訳には行かぬから目下形勢を観呈している又東横沿線へ校舎移転の事は北校長も移転すれば東横で100,000円の資金を出して呉れるからそれで専門学校に昇格できるといっていたが府当局としてはその可否をいう事は出来ぬ |
昭和10年5月21日 火曜日 学校側は強気 学生側焦る 帝国美校騒動続く 既報、校長排斥運動とまで深刻化した武蔵野町吉祥寺帝国美術学校の紛争も19日は静観中の1年生も盟休に参加し父兄も学校支持派生徒後援派ともに会合を開き対策を講じ校友有志会は2日事務所を杉並区から吉祥寺4○○阿部方に移し午後4時から大会を開いて生徒支援の策を練った父兄代表阿部孝次郎中将は同日文部科学省並に府を訪問善後策につき陳情したが飽くまで強気に出ている学校側は生徒の反対を尻目に東横電車沿線上野毛への移転を開始し校庭の樹木の移植に取りかゝったので学生側もあせり気味で平静を破りそうな形勢である |
昭和10年5月22日 水曜日 北校長の排撃を府へ強硬に陳情 美術学校の盟休つひに6日 怒れる父兄委員 盟休ついに6日、北校長排撃に起った父兄代表安部幸二氏外7名は21日午前10時府を訪い池田学務課長と会見 昭和6年4月以来近日中昇格の予定であると宣伝しては生徒を募集その間何等積極的な方法を講ぜずそれどころか経営を他人に譲るとはなんたる不誠意極まることか教育方針は全く無定見極まるもので創立当初からの教員2名を解職しまた師範科の募集中止する等学校の将来が案じられている、去る15日には一般父兄に何等の通知もなく52名を除名、104名を無期停学にした等の暴挙もある、我等はこの横暴、無定見な北校長に1日も子弟を託することは出来ない府当局は速に適当な措置を講ぜられたい と頗る強硬な陳情を行った、これに対して池田学務課長は 直ちに学校に視学を●して十分実状を調査した上で解決のため適当な方法を講ずる と答え同11時会見を了えた 創立の当時 紛糾を極めている帝国美術学校は昭和3年7月12日今回解職となった名取堯3氏が東京下谷初音町居住金原省吾氏(氏も今回解職となる)をたずねて美術学校創立に努め当時日本画科長に平福百穂、洋画科長に森田恒友、工藝図案科長に杉浦非水氏等を依頼したことに始まるもので その後昭和4年3月3日帝国美術学校と名称を決定、理事会に木下成太郞氏、校長に北昤吉氏学監に金原氏、主事に名取氏を挙げ武蔵野町の現在の場所に8月30日起工、9月2日上棟式10月20日第1回入学試験を執行22日始業式翌日から授業を開始、24日府から認可の内諾を得、27日開校式を挙行、同月30日設立認可となり現在に至ったものである 臨時授業の準備 盟休生側の対策 学生監並に庶務主任を解職された名取堯、金原省吾両氏は徒らに盟休を続けるのを憂慮して21日来武蔵野町吉祥寺●●音楽学校所有の武蔵野学園校舎を借りて臨時校舎となし問題解決まで授業を開始せんと奔走中 疑問視さる学校移転 学校側では生徒の盟休を尻目に21日10余名の植木職人をして表門前庭園の樹木の移植に着手した、学校当局は移転に決定した東横沿線上野毛駅前に持って行くのだと言っているが学生側はそれを信じない【写真は疑問視さるゝ移転の1歩】 |
昭和10年5月22日 水曜日 流石は商売柄 漫画も飛び出す 盟休学生合宿所風景 [既報]帝国美術学校の学生盟休は既に1週間となり21日の吉祥寺5○○の本陣も幹部学生を除いては少々退屈といった状態でお手のものゝ漫画書をはじめた者もある、学生派と見られて盟休と同時に平教授となった金原省吾、名取堯両氏も時々陣中見舞にやって来るがこのまゝ推移するのも如何かとあって金原、名取両氏が中心となって近く授業を開始する方針のもとに秘密裏に校舎かお寺の空家探しに奔走中とのことだ、何れその実現と共に学校派、非学校派と完全に2派分裂するものと見られ注目されている、一方学校当局では校舎の移転も来る9月の2学期から開校の予定のもとにこれを断行するに決したものゝ如く昨21日から校舎周囲の植木類をトラックに積込んで運搬している 昨日父兄代表 学務課長訪問 帝国美術学校の学校騒動で除名及無期停学の処分をされた156名生徒の父兄代表四谷区会議員武藤久壽、安倍幸重郎陸軍少将の両氏外9氏は21日午後1時府学務課に池田課長を訪い騒動の経過を述べ 北氏を校長として置く事は図案科を除く生徒全部も亦吾々父兄一同も反対であるから学務当局に於て善処されたい尚又校舎を東横沿線へ移転する事は現在の処に於て2千3百坪の土地と立派な校舎を有して居り子弟を通学させるに利便のためにわざわざ吉祥寺付近へ転住したものもあって生徒並に父兄に大打撃である その他等々を陳情したに対し池田学務課長は 趣旨はよく解りましたから更に事情を調査して善処致しましょう と述べたので一同これを諒として引取った |
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昭和10年5月23日 木曜日 依然と強腰 帝国美術校の盟休生きのう府へ猛陳情 盟休ついに7日となった帝国美術学校問題の盟休生側は代表者を挙げ22日も府に陳情、北校長排撃を猛烈に述べた、府当局が如何なる裁断を下すかこの点非常に注目されている、一方田無署では学校当局の移転準備に疑惑を抱き●●調査中、盟休生は各方面よりの援助金によって依然籠城をつゞけ今後1ヶ月間の闘争資金には不自由ないと物凄い意気である |
昭和10年5月24日 金曜日 SOSの飛電 北海道に飛ぶ 美校盟休事件 [既報]学生の盟休のまゝ対峙している吉祥寺の帝国美術学校の学校騒動も全く何時解決するとも予想つかず、只徒らに両者とも宣伝にこれ努めてその日、その日を送っている状態である、学校当局では23日午後2時から評議委員会を開いて対策を協議した、一方盟休学生側の父兄会とこれに同情応援して馳せつけた同校卒業生等によって213日同校創立者北海道選出、政友会所属の木下成太郎代議士に向って左記意味の応援電報を発した ◇卒業生- 飽まで校長排認、校名存続、移転反対 ◇父兄会- 学校問題は教育上重大で憂慮に堪へぬ、何分の措置を頼む |
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昭和10年5月24日 金曜日 盟休切崩しの奇襲 学校焦りだし紛糾を煽る 俄然・文書戦を展開 盟休8日に及んだ帝国美術学校では21日停学処分にした学生の父兄に対し 拝啓小生徒1部学生に欺瞞され不穏なる決議文に署名致し候は軽率の至りに候依って今後を戒め必ず学生の本分を守り授業に専心せしむべきにつき停学処分御宥怨願上候、帝国美術学校長北昤吉殿 と印刷した誓約書を発送、署名捺印して提出方を求めた、盟休生側はこれを聞いて激昂し23日父兄並に保証人に学校当局右手段痛撃の書類を発送、卒業生側は同日北校長不信任、校名存続、移転反対の電報を同校創立者たる北海道選出代議士木下成太郎氏に宛て発送し父兄会からも同氏宛に教育上憂慮にたえないと言う電報を発する等学校、盟休生、卒業生、父兄等猛烈な文書戦を展開するに至った |
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昭和10年5月25日 土曜日 “学校移転反対”町民も起つ 美術校問題益す紛糾 帝国美術学校の盟休は依然解決の曙光見えず同校創立に奔走した府会議員内田秀5郎氏が乗り出し目下双方と折衝中、一方北海道にあって校主木下成太郎代議士は父兄盟休生の懇望によって1両日中に上京することゝなったが24日校友会卒業生は地元町民に対して町の発展のため移転反対運動に蹶起を求めた、かくて同校の紛糾に町民も独自的な立場から移転反対運動を起す模様である |
昭和10年5月25日 土曜日 軟化学生続出して結束の足並み乱る 帝国美校盟休いよいよ大詰へ [既報]北校長排撃、創立当初の学校精神並に校風の確保、移転反対等々これが目的の貫徹するまではと吉祥寺5○○の空家を借りて本陣を構へ籠城を続けて来た例の帝国美術学校の盟休学生も盟休10日目の24日に至り、もろくも1角が崩れはじめた、父兄等の勧めで軟化して来た学生は密かに学校当局者の私宅並に学校を訪問して不穏行動を詫びた上是非復帰させて貰いたいと希望するもの同日午前中既に40名に達したので学校側ではこれ等復帰希望者からは保証人連署の 小生保証の何某議1部学生に欺瞞され不穏なる決議文に署名致し候は軽卒の至りに候よって今後を戒め必ず学生の本分を守り学業に専心せしむべきにつき停学処分翻容恕願上候 の誓約書を徴し本格的授業開始と同時に収容する事になったので今後復帰希望者が続出するものと見られているが、これによって盟休学生側がいつまで頑張るかゞ興味ある問題として残されているが、いずれは1部のリーダー格を除いて大部分の学生が陳謝復帰する事になる模様である |
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昭和10年5月26日 日曜日 “北氏在職学校に我ら籍を置かず” 全クラス大会で誓約 デマ紛糾を煽る 盟休生結束固し 盟休ついに10日、帝国美術学校問題は依然紛糾を続け新に24日洋画科4年生10数名も盟休に参加、その決議分を北校長に提出した、かくて盟休生側は4年生が24日午後1時から東京市杉並区西荻窪永井宏君方でクラス大会開催、25日午前0時から井の頭公園喫茶店カービーで、2年生また同所で午後1時から、5年生午後3時から盟休事務所で、3年生また同所で、同日日本画科5年生は武蔵野町吉祥寺盬出英雄方でいずれもクラス大会を開催、今後の方針を協議して各クラスとも左の誓約書を作成、北校長に提出する準備中 誓約書 北昤吉氏在職の学校に我々は絶対に籍を置かず、右誓約す 一方父兄側では校主たる北海道選出代議士木下成太郎氏の上京を求めて解決せんと奔走中だが同代議士は目下病気静養中で24日急速上京不可能の電報に接し氏の上京を待つことに意見1致した、盟休生の事務所にはお手のものゝ漫画が室内に1面に貼られ「北校長漫画風景」賑やかだ、なお盟休生の1角が崩壊したとのデマが乱れ飛んだので盟休生代表は25日各方面に「その事実なし」との書状を発した 「学生と撲り合い」守衛クン検挙さる 25日午後5時0分ごろ除名処分に付せられた洋画科3年生山鹿正純(22)君は旅行その他の積立金請求のため学校を訪問したところこの問題で雇入れた臨時守衛中村正雄(2〇)君と些細のことから口論をはじめ両名が殴り合いをなし山鹿君は頭その他に1週間余りの負傷をなし中村君は田無署に検挙され目下取調べをうけている |
昭和10年5月26日 日曜日 明日から授業開始 学生軟化食いとめに必死の 帝国美校盟休派 [既報]盟休学生1部の軟化を見た帝国美術学校ではこのまゝ休校を続けて行く事は教育上大問題となしいよいよ明27日から授業を開始する事に決定し25日その旨発表した、一方同校の学生募集の1条件ともなっている『専門学校昇格』の前提として盟休学生の反対をも押し切って予定通り問題の東横沿線上野毛へ校舎の移転を断行する事に決し既に敷地内の植木類の移植に着手し、また『帝国美術学校移転敷地』と太書した立看板の製作に取りかゝり、夫々移転準備を急いでいるが、これを盟休側から学生にいわすれば1つの牽制策だと一笑に付して居り日本画の学生は25日午後1時から吉祥寺井之頭公園の喫茶店カーピー方にまた日本画科学生連は同日午後2時から同町431盬出英雄方に集合、軟化学生に対する警戒及び今後の対策について協議した とうとう 暴行沙汰 帝国美術学校の盟休事件も漸く峠を越した25日に至りついに悪化し神聖なる学窓に1大不祥事を惹起した、それは同日午後5時50分頃先に除名処分に付された洋画科3年生山鹿正純(2○)が同校事務所を訪問修学旅行の積立金返還を申出た学校の幹部が不在のため中村政雄(23)が応対し2言3言交して身内喧嘩となって殴り合い山鹿は鉄拳を喰って後頭部に全治1週間の傷を負った中村は暴行罪として直に田無署に検挙された |
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昭和10年5月28日 火曜日 両者それぞれ 大童の作戦 美校の盟休 学生の盟休のため休校中であった吉祥寺の帝国美術学校では27日から授業を開始した所が、学校側の期待はガラリと外れて先に除名、停学等の処分に付された150名を除く300名足らずの学生のうち登校したのは僅に図案科と彫刻科とを合せて僅に120-130名に過ぎなかった、この日午前10時盟休学生側では伺日和見の態度にある1年生の幹部どころ20名を帝都電鉄井之頭駅前の喫茶店カーピーに招集し盟休参加を勧誘すれば学校側でもこれを聞きつけて学生監の佐藤勝康氏が数名を引率して乗り込み別室で会議し示威をやる等学校側も相常あわて出して来た、一方父兄会の代表陸軍中尉安部孝二郎、四谷区議武藤久壽の両氏は同日午前10時田無署に上野署長を訪れ、盟休問題について解決案を懇談する所があった |
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昭和10年5月29日 水曜日 遂に仮校舎で授業 問題は退学生らの徴兵検査 縺れた美術校の盟休 帝国美術学校盟休について28日立川憲兵遣隊長は田無署に上野署長を訪問、除名学生の徴兵問題その他につき打合わせた、兵役法によると除名処分の日から04日以内に本人から届出でそれによって徴兵検査を受けるものでこの点父兄会から解決する迄延期方の申出があったが分遣隊としてはこれに応じられないとある、一方盟休生側では父兄会の忠告に依って仮校舎で授業することになり東京市神田区日本大学付属舎を借用に決定近日中に開始する筈で28日盟休生は事務所で記念写真を撮影した 又学校側では盟休生が復帰しなくっても9月の新学期に募集するから差支ないと言っている |
昭和10年5月29日 水曜日 盟休派近く 日大を間借 帝国美校事件 帝国美術学校の盟休学生団は吉祥寺5○○に本部を置き蘢球盟休を続けて来たが何時解決するとも見当もつかずこのまゝ放置する事は学生等にとって不利益であるとて実習の出来る場所を求めていたが大体神田区3崎町日本大学の校舎の1隅を間借りする事に内定、1両日中に移転する事となり218日幹部一同が記念撮影を為し、いよいよ引揚準備に取りかゝっているが盟休学生中幾人位が参加同行するか興味をもって見られている |
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昭和10年5月30日 木曜日 問題の停学処分府で“考慮”を求む 断乎!北校長一蹴 美術校盟休 遂に2週間 帝国美術学校の盟休は除名処分を受けた学生は兵役法によって即時届け出でをしなければ違反になるので父兄会でこの点を憂慮して立川憲兵分隊に陳情、延期を求めたが拒まれ府学務部に歎願した、かくて28日府熊野視学は学校当局を訪い北校長に面会例の停退学処分について考慮を求めた、これに対し校長は各父兄自ら当局に懇願に来れば考慮するが、そうでない現在考慮の余地はないと回答した、かくて29日父兄会長陸軍中将安部幸一郎氏は盟休生を召致、協議を重ね直ちに徴兵検査を受けることになった |
昭和10年6月1日 土曜日 調停も功なし 美校の盟休 帝国美術学校の学校騒動の調停に乗り出した杉並区選出府、市会議員で同校の維持員内田秀五郎氏は 処分学生無条件で復校させる事 東横沿線校舎移転反対 という学校には頗る不利な調停案を示し、熱海の伊豆山に滞在中の北校長を訪れたり、学校当局の幹部と折衝を試みているが2調停案とも校長以下評議員一同の面目にもかゝわる問題とて拒絶するは勿論でいずれは妥協案によって更に折衝する事となるだろうが、北氏が意外に態度強硬であるから何んとしても早急の解決は全く至難の事と見られている 盟休中の日本画各科学生30名は31日午後1時から吉祥寺431盬出方に集合し学校問題の経過報告の後この際1層結束すべく申合せて散会した |
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昭和10年6月2日 日曜日 調停遂に決裂 美校の盟休 帝国美術学校当局では既報の調停者の申出を断然拒絶する事に決定内田氏は1先ず手を引く事となった一方盟休学生側では此不調の報に周章狼狽し明3日午前0時から杉並区西荻窪の映画館富0館で大会を開き経過報告並に今後の対策方針を決定するはずであるが、今後の北校長への交渉は同校創立者木下代護士に依頼する事とし、盟休学生団としては金原、名取両教授を中心として自習を本位とする程度の塾を休館中の富士館で開く事となる模様である |
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昭和10年6月4日 火曜日 モデル嬢を迎えモダン“寺子屋” 美術校生朗かに学ぶ 盟休210日 帝国美術学校の盟休はついに20日盟休生の結束頗る固く3日から予定通り東京市杉並区荻窪町上荻窪区会議員小俣新吾左衛門氏所有西荻窪富士館を仮校舎として授業を開始同館前には「美術仮研究所」と大書した看板が掲げられ、この日盟休氏は盟休2日間の経過報告書を印刷して配布、集まった学生は約280名授業を午前、午後と2部にして授業室は第1室を2階第2室は同階休憩室を当て [午前第1室]洋画1、2年第2室洋画4年 [午後第1室]洋画2、5年彫刻師範第2室日本画 としてモデル女を迎えて平素に変わらない授業振りであった なお盟休生は仮授業開始に先だち配布した盟休開始の5月15日以来の経過報告書の大要は左の如くで校長北昤吉氏には職員の任免権なく校主北海道選出代議士木下成太郎の手にありまた盟休生側では除名、停学処分を受けない学生の休学届を学校に提出し仮授業を受けるに至ったもので坂町博彦、寺内銈蔵両君は盟休を破ったと絶縁状を送った 経過報告 5月15日以来我等が北校長の教育方針及び人格に対する不信任を表明し 盟休に入りて巣でに2日此間1糸乱れず盟休を継続せるは1つには我等の正義に対する信念の堅さと又父兄諸氏及び卒業生其の他の方々の熱烈なる御援助の賜物なり 2、この熱烈な1念は遂に設立者木下成太郎先生を動かし先生は設立権の発動により北校長の勇退を求めらるゝに至れり因に校主の権限を付記す 1、校長の任免権は設立者にあり従って校長の解任は木下氏自由なり 3、今後は木下先生及び調停者内田秀五郎氏中心となり帝国美術学校発展の為め努力せらるゝことゝなれり[写真は仮授業中の盟休生—右端はモデル女] |
昭和10年6月4日 火曜日 くらがり教育 盟休学生きのうから実習 教室は映画常設館 盟休学生団200余名は内田氏の調停が不調に終ったので何時解決するとも見当がつかなくなったので杉並区西荻窪駅前通りの目下休館中の映画館『荻窪富士館』を借りうけ盟休実に20日目の昨3日、午前9時全員集合、先ず幹部から経過報告があってから何れも2階の観覧席に陣取って薄暗がりの所で教授もなく珍風景な実習をはじめたが、今後毎日午前、午後にわたって同様行うこととなっているのでいよいよ学校側と完全に分離し対峙する事となった映写幕の所には学生らしく 集会の性質を帯びたるが如き行動を慎むこと 専心研究に没頭し喧噪に渡らざること 演説口調を用い多人数に話しかけ或はこれに拍手を送るが如き行為を禁ず 煙草の火に注意すること 等々注意書きをなし至極穏かな勉強振りを見せていた、学校当局では表面平気を装って傍観しているようだが、その実少からず狼狽しているらしく同日午後熱海から帰った北校長を囲んで善後策を講じたとの事である |
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昭和10年6月5日 水曜日 内田府議の交渉 北校長一蹴 きょう父兄会対策協議 帝国美術学校盟休問題は校主木下成太郎氏の依頼で調停に起った府議内田秀五郎氏の奔走空し交渉決裂となったので5日午後7時から武蔵野町の学生代表事務所に急遽父兄会が開かれることになったがさきに父兄会では調停者内田府議に左記要求書を提出した 盟休原因、校長に対する不信任からである、不信任理由、美術教育者として不適切である、学生に対しては不親切である、経費不足として学課を縮少、人事行政また不公平等々 又希望条件として 校長の勇退、学生の処分取消即時授業開始、不良学生の処分、太田、村田、佐藤、新井、皆見、野津、小田、木村(和一)稲垣(小使)の解職評議員の辞任等々 |
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昭和10年6月7日 金曜日 遂に北校長勇退か 校主木下氏を北海道に訪う 解決近し美術校問題 帝国美術学校校長北昤吉氏は今回の学校騒動が自己に極めて不利に展開し且つ過般来文部省でも実情調査を行いその結果自分に不利であると伝えられつゝありこゝに同校長は北海道に静養中の校主木下代議士訪問に出発したとの情報が6日父兄会に入った、かくて北校長勇退説が昂まるに至った、いずれにしても校主訪問が事実であれば問題解決は近きにあろう |
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昭和10年6月11日 火曜日 デマ乱れ飛ぶ 田無署で鋭意「不穏」調査 美術校の盟休問題 帝国美術学校盟休生二階堂顕蔵氏外4名は10日午前10時半田無署に上野署長を訪問、最近盟休生側が暴力団を入れて学校当局と対抗せんとしているとデマが盛んに飛んでいるが学生側は何れも自重し解決を待っているので暴力団などは雇い入れないと諒解を求めた、一方警視庁では学校当局に暴力団がいると言うことを耳にして田無署に万一暴力団と見られるものがいる場合はこの際断乎検挙に努められたしと厳命したので10日同署上野署長は情報係員と共に自動車で学生事務所と学校当局を調査した |
昭和10年6月11日 火曜日 焦る盟休学生 署長に調停依頼 美校の紛擾は続く 帝国美術学校の盟休事件もあと4日で1ヶ月となるが両者とも秘術を尽して対抗している、一方府市会議員内田秀五郎氏の調停は北校長の態度強硬のため不調に終ったので同校の創立者木下成太郎代護士を動かす事となり、学生側の代表として寺田某氏が、北海道札幌に静養 中の同氏を訪問、学校騒動の顛末を報告し学生側の希望条件である 1、北校長勇退 1、除名、停学学生無条件復帰 1、校舎の移転絶対反対 等を示して調停乗り出しを懇願したが木下氏から婉曲にこれを拒絶されたものらしく去る8日夜空しく帰京したので学生側は期待が外れて非常に狼狽し 盟休のリーダー格洋画科5年生二階堂顕蔵君外3名は10日朝田無署に上野署長を訪れ今日までの盟休経過を陳述して調停方を懇願した模様であるが 警察としても学校側と学生側との意見に少なからざる懸隔があるのでオイソレとは乗出せないが何れは適当の妥協案を提げて調停に乗り出すものと見られている |
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昭和10年6月13日 木曜日 遂に盟休1ヶ月 依然と紛糾 どうなる美術校問題 盟休1ヶ月に及んだ帝国美術学校問題は依然と紛糾しつゝあり盟休生代表池田俊一、和田正一、二階堂顕蔵外3名は12日田無署を訪問、上野署長と懇談した又学校当局は停学処分にした金源鎮(21)氏が家庭の都合で帰国するに際し在学証明書を要求したのに対し学費が納めてないから証明書は出せないと拒絶、これに対し盟休生側はたとえ学費が納めてないとも除名でないから在学証明を出せと憤慨当の金君は在住地杉並署から在住証明書を貰って帰国した、又学校当局は13日盟休学生中の処分者を除き 無届1ヶ月以上の欠席に亙りたる場合は校規により除名処分に付すべし 1ヶ月以上無届欠席者は徴兵忌避者として法規により処罰せらるべし 学期も終り近く学業成績を採るべきものなしよって落第に至る右戒告す と言った文面を葉書に印刷して各学生に送達した |
昭和10年6月13日 木曜日 徴兵忌避者として処分 盟休生に通達 盟休学生の実習に対抗して授けている例の帝国美術学校では11日に至り、除名52名、停学104名都合196名の処分学生を除いた学生で盟休に参加して尚欠席を続けている学生に対し左記の如く通達を発した 1ヶ月無届け欠席にわたる場合は校規により除名処分に付する事あるべし 第1学期末も近く学業成績をとらざるものは落第せしめる事あるべし 1ヶ月無届欠席にわたりたる場合は徴兵忌避者として法規により処分をくうべし これを受取った学生連は少なからず恐慌を来している模様である |
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昭和10年6月14日 金曜日 美術校移転反対に 果然・武蔵野町起つ 盟休生に力強い支援 紛糾中の帝国美術学校は父兄会と全学生の反対を押切って北校長が独断的に東京市世田谷区上野毛に移転せんとし既に東横電鉄会社と敷地に関して調印迄終了したと伝えられているが同校現在所在地たる武蔵野町では果然移転反対運動を開始、目下秋本町長以下高橋、永長、両助町会議員其の他が町内有志宅を歴訪、調印取纏め中であり両日中に学校創立者木下成太郎氏、校長北昤吉氏、府当局に移転反対に関する陳情書を提出することゝなった、かくて問題は更に拡大し且つ盟休生側に益す百合に展開するに至り北校長も狼狽しつゝあると言われている |
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昭和10年6月16日 日曜日 移転反対昂まる 隣接の井荻町も起つ 帝国美術学校問題 帝国美術学校の移転反対は武蔵野町のみでなく隣接の東京市杉並区井荻町でも反対で武蔵野町と提携して移転阻止運動を開始、目下調印の取纏中で今明日中に終る、知事、美術学校創立者、同校長北昤吉氏の3氏に陳情書を提出することになった、なお武蔵野町の陳情書は左の如くである 陳情書 仄聞する所に寄れば私立帝国美術学校は現在地たる本町吉祥寺より東横沿線に移転せらるとのことなり然れ共現所在地は土地高燥にして空気新鮮、学生の保健衛生上最も適当の遅なり而己ならず中央沿線にして吉祥寺西荻窪駅の中央に位し電車は3分乃至5分毎に発着し之れを利用の生徒は徒歩約10分間にして同校に到着し府●道第26号線に面し路面は全線舗装を以てし加えるに両駅間を通ずるバスの利用ありて交通至便の地たるは論を俟たざる次第に御座候 同校は昭和4年本町に新設以来年を重ねること7年、其の間各地に知らるゝと共に生徒は年々増加し今日の隆昌を見るに至れり之れ偏に本校設立者並に校長を始め関係ある各位の平素の努力に據るは勿論なるも地の利を得たる点も亦其の1助たるものと信ず依って本府に於ても多数及び父兄の希望を御考慮相成と共に本町吉祥寺に同校設立認可の趣旨に重点を置き又本町民大衆の要望に鑑み他に移転の儀学校当局者に於て認可稟請の場合は御認可差控へ相願度此段以連署及陳情候也 また14日午後4時池田府学務課長は山田府学務課長は山田府会教育委員長外委員7名を同伴、自動車で美術学校を訪い縷々調査をなし夕刻帰京、一方北海道に木下代議士を訪問した府議内田秀五郎氏は15日に帰京するので父兄会代表委員は16日午前0時から学生事務所に集合、協議するが席上内田府議は木下代議士訪問の結果を報告する筈 |
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昭和10年6月22日 土曜日 北氏へ最後の切札 木下校主と父兄会共同戦線 校長派・学校を閉鎖か 美術校問題 帝国美術学校の紛糾はその後も北校長の頑張りから円満解決点を見出し得ず遂に木下校主は北氏に対して委任解除の通告することになった、これと同時に父兄側は校長に辞任を迫り代理校長をもって処分学生はじめ盟休生の入校式を行う戦術であり一方学校側即ち北校長派は断然これを1蹴し場合によっては現校舎は閉鎖する方針で空気1段と険悪化しつゝあり田無署では21日から特高、情報係りの外制服警官10余名をして警備せしめ上野署長は22日警視庁に出頭詳細報告することになった |
昭和10年6月22日 土曜日 城を明け渡せ 校舎は僕のだ 紛争続く美校事件 例の帝国美術学校の盟休も暑中休暇が近づいて来た、盟休学生側では府議内田秀五郎氏の奔走によって北海道札幌に静養中の校主木下成太郎代議士から北校長罷免の電報が来る事になっているのでその着電と共に校長代理を立てゝ北氏に校舎の明渡しを迫り、盟休学生を入校させるといっているに対し、北氏は校長は罷免されても校舎が僕のものであるから盟休学生等一歩も校門へ入れぬと頑張るは勿論盟休学生側の反対の1項である東横線世田谷区上野毛への校舎の移転も暑中休暇中に断行するといっているので今後の成行こそ問題で何れは両者が法理論によって解決する事になるらしいが事態容易ならざるものあり、所管田無署では万一を警戒中である |
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昭和10年6月23日 日曜日 移転は決定的 帝国美術学校 大波乱を予想される美術学校問題の対策につき田無署長は22日警視庁に出頭、警衛課と取締り其の他につき慎重打合せを遂げた、一方学校当局では22日学校創立当時から紛糾に至る7ヶ年の経過と紛争に関する顛末をパンフレットにして各方面に配布したそれによると上野毛移転は決定的で今夏の夏休みを利用して行う、移転阻止に努めてきた既報の武蔵野町及び隣接井荻町では一般の調印取纏中であったが21日合同で府知事、北校長、木下代議士の3者に陳情書を提出した |
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昭和10年6月26日 水曜日 北氏ついに罷免 新校長は木下成太郎代議士か 美術校紛糾最後の爆発近し 北校長排斥から盟休に入って既に40日、調停者内田府議も手を引き事態益す悪化しつゝある帝国美術学校は愈よ北校長罷免に決定した、即ち24日午後5時ごろ北海道に静養中の校主木下成太郎代議士から内田府議の許に 学校経営一切の委任を解除し校長を罷免す と言う入電がありこれより先き内田府議等は弁護士天野頼義氏に依頼して府及び文部省に校長罷免其の他に関する書類を提出して準備をしていたので内田氏等は今明日中に学校当局を訪問、正式に木下氏の入電を示して勇退を望むこととなったものであるが一方学校側はそんなことを認めないという強硬な態度で両者の正面衝突はまぬがれない北校長は校舎は立派に登記してあり自分のものだから釘つけにすると主張しているが校主木下氏の方では校舎の差押えを申請(学校につき生徒の授業に使用の点を除く)することゝなりこの点に対しては北校長も訴訟を提起するものと見られる一方盟休学生側は木下氏が校長を罷免したので校長に木下成太郎氏を推薦、更に同氏上京迄代理校長を置いて処分学生の取消をなし入校式を行う戦術で全生徒に対しては夏休帰省見合せられたいとの書状を発し問題は愈よ幹部間の争いに移るに至った |
昭和10年6月26日 水曜日 北校長を罷免 北海道より飛電来 大詰を前にさらに一嵐か? 帝国美校盟休事件 [既報]帝国美術学校騒動もいよいよ大詰が近づき24日午後に至り、北海道札幌に静養中の同校主木下成太郎代議士から調停に奔走中の府議内田秀五郎氏宛『校長北昤吉氏を罷免』の電報が到着したので果然盟休学生側に凱歌が揚がった、これによって盟休側では25日府庁に出頭校長の更迭の手続を執り、新校長には木下氏が就任する事となったが氏は目下病気静養中の事とて適当の人を選んで校長代理となし、先に除名、停学の処分に付されていた150余名に対してはそれぞれ復帰せしめ遅くも1両日中盟休学と共に吉祥寺5〇〇の盟休本部裏手の空地に勢揃いして学校へ乗り込み入校式を挙行する事となった 一方北氏は校長は罷免されても校舎は僕のものだと頑張る事となるべく勢い正面衝突となって或は乱闘劇の不祥事を引起こす恐れがあるので田無署では事態容易ならずと見て本庁と打合わせの上万一の場合は例の警備隊の出動を請う手筈をなして警戒している 尚同問題もいく所まで行った形だが何れは法律によって争う事となるらしく北氏対木下氏との間に取交わされている委任関係及び北氏対金原、名取両氏との出資関係等が頗るデリケートの問題となっており、その成行こそ各方面から興味をもって注目されるに至った |
昭和10年6月26日 水曜日 北海道の木下氏から 北校長解職の電報 田無署は警戒の目を光らす 帝国美校騒ぎ何処へ 武蔵野町吉祥寺帝国美術学校盟休問題も学校側の強気は父兄、校友の反校長熱を高めついに25日北街道に出張中の学校創立者木下成太郎氏から校長を解職する旨の電報が到着し形勢急迫したので田無署は本庁とも連絡をとり万一の場合特別警備隊の応援出動を得る手筈をきめ警戒中である 「鉄条網を張り 学校側強気」来週から夏休です 学校では何も変化はなく残留生徒200余名によって平静に授業をつゞけている盟休生はこのまゝ潰滅するでしょう学校は来週から夏休みに入るので別段会合など開く必要はない東横沿線への移転は進捗中で今更土地の人達がどうこういっても仕方ないでしょうと相変わらず強気に出ているが学校の周囲の石垣の間にある木戸々々へは、ま新しい鐵條網を張りめぐらしさながら武装したような有様だ(写真は木戸々々の鉄条網) 「小美濃氏談」学校の地主小美濃文太郎氏は 父兄、校友会も盟休生に同情しているようでして1両日中に学校との徹底的な交渉がはじまると思います移転のことについてはまだ学校側からは何の話もありません といつていた 「学生側の談」学生側は学校当局が少しの反省もなく冷淡な処置にあるので今は父兄も校友もすべて私達の味方となってくれ木下氏の電報も得ましたので校長排斥で押し進み学校改革の目的を達する考えですといっていた |
昭和10年6月27日 木曜日 遂に双方決戦の溝へ 流血の入校式惹起か 新選組警備に出動 盟休生に凱歌挙る 闘争45日・北校長罷免 帝国美術学校問題は木下校主が校長北昤吉氏を断乎罷免した、学校側は26日急遽毎年7月11日からの夏休みを27日から断行し盟休生が28、9日ごろ新校長木下成太郎代議士を迎えて入校式を行う封鎖手段をとり校舎は我々のものだ、処分した学生を入れる必要はないとまたまた校門際に天幕張りの臨時警戒所を設置、入校生1蹴の戦備を整えるに至りこゝに学生との正面衝突は不可避の事態を惹起しつゝあり田無署では極度に神経を尖らせ警視庁警衛課と打合せ万一の場合は特別警備隊の出動を要請してこれに備えるに至った、盟休45日間全学生はじめ父兄が結束して北校長排撃に躍起した結果は全幅的の勝利となったが残された問題は如何にして入校する?である、即ち北校長は最後の最後まで執拗な闘争をつゞける決意をしていると伝えられる 勝った盟休生の喜び(上)街頭『大勝』のビラを貼る盟休生(下) 新校長は木下氏 代理校長に安部中将 凱歌を挙げた学生は第5次声明書として 昭和0年6月24日付北昤吉氏は帝国美術学校々長を解任され同日木下成太郎氏後任校長就任に決す、右により我々の所期の目的は達成されたり、よって我々はこゝに5月15日以来の盟休を解除す、右聲明す と言う文面の声明書を各方面に発送すると共に盟休学生事務所では26日早朝「大勝」「解除」「御礼」などゝ大書して事務所前に掲げたかくして学生側は新校長は校主北海道選出代議士木下成太郎氏と決定同代議士病気静養中にある為め当分代理校長として東京市杉並区天沼予備中将安部幸一郎氏を推薦目下府、文部省に申請中で27日中には決定する予定、28、9日頃には先ず安部代理校長により入校式を挙行することになり学生側は大勝に歓喜している 北氏法廷戦を辞さぬ肚 北昤吉氏は校舎は自己所有のものなりとして訴訟を起す準備中で一方木下氏側は学校の代表者として北氏名義で登記したもので校長を解任すれば代表者でなくなる即ち訴訟問題より1足先に校舎の差押え処分をして学生の授業を行う方針であると言っている 罷免となった北昤吉氏を自宅に訪えば、氏は不在で家人は『多分学校のことで府庁か文部省に行ったことゝ思います、主人は学校は自分のものであるから人様が見る様に簡単には行かないだろうと言っておりました』と語った 一般の支援に感謝します 盟休生語る 北校長は既に罷免されているのにも拘らず夏期休暇を命じたのに対し不法行為だと学生側は憤慨しているが北校長排斥に成功したので朗かに語る 僕等は父兄がやっていたことで内容はよく知りませんが、勝ったことは事実です、只今御礼の張紙を出した所です、これも新聞社の方々や一般町民其の他の御援助があったことだと思っております “誤った学生処分”創立者・名取氏語る 同校創立当時出資し今回の問題で職を解除された名取堯氏を訪問すれば左の如く語る 不法な学生処分でありますから学生側が有利になるのは当然のことです、決して戦いに勝ったのではない、勝ったと思うのが間違いです、私立学校では校主が罷免すれば校長の権限はなくなります、私立学校は申請事項です、ですからいくら北氏が頑張っても既に校長失格の効力は発生しているのです 「肚をさぐりに?」北校長の命で寺田氏 病床の木下氏を訪う [札幌発]帝国美術学校問題に関し、同校の寺田校長代理は札幌の自邸に病を養っている木下成太郎代議士の意向を聴取するため25日午後7時40分着の列車で来札し26日朝来病床にある木下氏と協議を重ね往訪の記者に対して問題 を語ることを極力避け且つ執事を通して 「實は学校の問題について協議中であることは事実だが1、2日考慮したい考えであるからそれまで猶予してもらいたい」 と語ったのであった、なお寺田氏は26日の夜の列車で1先ず帰京する |
昭和10年6月27日 木曜日
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昭和10年6月27日 木曜日
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昭和10年6月28日 金曜日 学校側最後の戦術 校舎は釘づけ “許可なくして入るを禁ず” 物々しい制札を掲ぐ 紛糾最後の爆発迫るに至った帝国美術学校は27日各校舎の出入口を全部釘づけにして学校の入口には「所有者北昤吉」と記した木の札を掲げ正門入口際には数名の守衛を配し「許可なくして入ることを禁ず」と記した札をたて校内外には物々しい空気が漲っている[写真は「無断入るべからず」制札と天幕張りの臨時警戒所] 学校の事務員揺らぐ 北校長を罷免されて以来学校側は敗北の形となったので事務員小室美津三(26)庶務係大野百合子(26)会計係小宮山京子(23)等は27日暑中休暇中の代理校長と自称する生徒監佐藤勝康氏に対して今後の生活の保護を要求した、これに対して佐藤生徒監は明確な回答を与えなかったところ事務員ら3名は昂奮して明答せよと要求しつゝあり益すごたついているまた盟休に参加しなかった小数の図案科生は27日午後6時から東京4谷新宿京王パラダイスに総会を開き対策を協議し図案科長杉浦非水氏から問題の経過報告が行われた 教務主任暴れる 盟休生の看板を破壊 一方盟休生側は北校長罷免に歓喜していた26日夜美術校教務主任太田耕治(37)氏がひそかに盟休学生事務所前に掲出しあった「大勝」の立看板を破壊して下水路に投棄したのを発見、田無署に訴えたので同署では27日早朝活動を開始東京市杉並区井荻町の自宅から太田氏を召喚、目下高木司法主任が厳重取調べ中だが器物毀棄罪で処断されることになった、盟休生は太田氏の行為にいずれも憤慨して27日二階堂顕蔵、池田俊1外4名の代表を挙げ田無署に上野署長を訪い厳重処分方懇願した、同署ではその際盟休学生側が無届でビラを撒布し或は貼付した点を取調べ注意するところあった |
昭和10年6月28日 金曜日 |
昭和10年6月28日 金曜日 帝国美校爆裂! 学校側の学生 盟休本部を襲撃 対峙して戦争騒ぎ 両派の正面衝突を極度に憂慮せられていた吉祥寺帝国美術学校の学内騒動は去る24日北校長の罷免の飛電とともに果然尖鋭化するに至り将に1触即発の情勢にあったが26日午後11時に至り遂に学校側学生の一団は盟休側学生事務所を襲撃、立看板、アジビラ等を滅茶々々に破棄して引き挙げたが盟休側もこれに対抗して不穏な空気漲り盟休派学生の非常招集を行うとともに27日午前9時盟休学生並に校友会代表6名は田無署に出頭、上野署長に面会、学校側が暴力手段に出る以上盟休派もこれに対して防衛手段を講ずべき旨言明して引き挙げたが両派の衝突は今や不可避的であり単なる時間的の問題と見らるるに至つた、一方学校側は26日来正門に木柵を設けて一般の出入を遮断すると共に新たに正門内に臨時守衛の詰所を設け屈強の青年2名が目玉を光らしている校舎は7月11日よりの暑休を27日に繰上げ固く鎖ざされ『無用の者無断で入る可からず』の制札が裏手にも立てられてこの方にも若い張り番が頑張っている、居合せた佐藤学生監に『馬鹿に暑休が早いんですネ』と水を向けて見たら『校舎の上野毛(東横沿線)移転で準備の都合もあるので早くしたのです』と苦しそうな答弁、田無署では事態を重視し同校にほど近き本田駐在所を警戒本部にあて石原警部補以下正私服10数名を派遣警戒に当っているが電命1下警視庁特別警備隊も出動準備を整えている何れにしても盟休40余日にわたる盟休事件も目下の情勢では盟休側が絶対的優勢でこれに対して北氏を中心とする学校側がどう動くか文部科学省も府学務当局も手が出せない同校学校騒動の今後は混沌として予断を許されないものがある 田無署へ引致 学校側太田教務主任 帝国美術学校教務主任太田耕二氏は27日午前5時田無署に引致され高木司法主任より厳重取調べを受けているが右は26日夜の学校側学生の盟休団事務所襲撃事件に関し同氏に教唆の嫌疑濃厚で盟休側は同氏が先頭に立って学生を指揮したと主張しており同署でも同氏の暴行事実の確証を握っているので器物毀棄で起訴されるのではないかと見られている |
昭和10年6月29日 土曜日 紛糾一転・解決の曙光 美術校問題 微妙な動き [札幌発]帝国美術学校問題につき校主木下代議士を自邸に訪えば「寺田校長代理と相談の結果円満解決したので寺田君は昨夜帰京した故内容については学校から発表になる筈である」と言い解決の内容は極秘にしている 右につき北氏を訪えば「本日(28日)午前10時ごろ無断で出たまま帰らず何れにいますか判りませぬ」又内田府議方を訪えば 『昨日の産業組合大会に出席するといって出たまゝで今日になってまだ何ともいって来ませぬ』 両氏不在のため代理校長に挙げられた安部幸一郎氏を訪えば 自分は大阪に行き昨日帰りその間の事情は知りませぬ、解決ですか、そんなことがあれば相談に来るか、知せに来る筈です、当分そう急に解決することはないでしょう 又内田氏の依頼で奔走中の天野弁護士は語る 『解決だ等ということがあれば私の方に1番先に知らせて来る筈です、私は依頼されているので何とか早く生徒の授業の出来るようにとそれを研究しておりますので解決等とは思われませぬ』 伝えられるところによれば北氏は学校明渡しに2万円を要求しており1万円なら出すと木下校主は回答したとのことである 事務員ら5名を馘首 生活の保障を要求して美術学校学芸係兼事務員宮崎光雄(26)庶務係大野百合子(26)会計係助手小宮山京子(23)給仕市川三郎(16)同佐藤英雄(17)の5名に対し27日北校長はそれぞれに本月分の給料を手交すると同時に解雇した突然の解職に5名は驚愕今後の処●を交渉中 |
昭和10年6月29日 土曜日 学校側やゝ生色 図案科生は当局支持 1敗地にまみれた形の帝国美術学校側では北氏代理として再び北海道に木下氏を訪れて交渉した寺田氏より27日午後『円満解決の曙光見ゆ』との入電に接し漸く愁眉を開き歓声をあげて勢力を盛返すに至り最初から盟休側に参加せず学校側と見られていた図案科の学生120余名は同日午後6時から新宿のパラダイスに会合し、同教授杉浦非水氏も列席して協議した結果、学校側を指示するを立前としての円満解決策に努力する事を申合せた |
昭和10年6月29日 土曜日 学校側攻勢 更らに5名馘首 ドン底に喘ぐ帝国美校 帝国美術学校の学内騒動は盟休団側捨身の攻撃にもろくも壊滅するかに見られた学校側が27日来やゝ態勢を挽回し北昤吉、杉浦非水氏等を中心に校舎死守の背水の陣を敷いて最後の決戦の決意をかため盟休側と相対峙するとゝもに27日午後に至り更に盟休側と目さるゝ同校事務員小宮山初子(23)大野佐代子(26)宮崎利夫(23)給士市川正光(16)小島義郎(13)の5名を馘首断乎たる態度に出でたが一方学校派支持の図案科生120名も同日午後6時より新宿京王パラダイス階上に学生大会を開き杉浦科長以下全学生出席、あくまで北氏支持学校擁護を申し合せ1致結束をかためて盟休派に対抗の作戦を練ったが之に対し盟休団本部では『純真なる学徒の改革運動を阻害する御用学生』なる冷罵の下に全学校派百70余名の学生に絶交状を送付すると共に今後における個人的交際をも峻拒する旨発表したので両学生間の軋轢は更に甚だしく険悪なる空気に覆われており田無署でも昼夜警戒を怠らず万一の場合に備えている |
昭和10年6月30日 日曜日 渡り合う“権利”の刃 軍配はいずれへ 「北と木下」コンビの破局 美術校紛糾の横顔 妥協なるか、決裂するか幾たびか明暗境を往来しつゝある帝国美術学校問題について29日北昤吉氏を隣接井荻町の自邸に訪えば氏は物凄い意気だ、校主木下成太郎氏に対する北氏は「政治家木下」の理論的指導者と言われる程の 深い仲だった、美術校長の椅子に北氏が坐するまで—木下氏が如何に出資したか、きょう相争う舞台にたちつゝあるものゝその結びつきの深さは想像に余りあるだがその恩讐を忘却の彼方へ— 解決するなどと言うことがどこから入りましたか、解決する筈はない、そんなことを真に受けては困る、私は承知しない、先方は校舎を仮差押処分するだろうがミスミス自分の所有物たる校舎を渡せますか、第3者が考えてもわかることでしょう、こうなったからには私と木下氏のドロ試合より外にない、大体私に譲渡し年1,200円の年金迄取って置きながら発言権があるなどと言って●策している木下の態度が不可解だ先方は新校長を決定して校舎の仮処分をして生徒を入れるとか言っていると聞いているがそんなことをしたのでは学校にいる生徒が承知せず生徒間でゴタゴタをすることになるだろう、私は只先方がどう出様と所有権並に経営権を有しこれを永久に強調して行くより方法なく最後は法廷の争いとなるだろうが勿論勝つのはこちらだ、法廷での争いを望んでいるよ、校舎へ無断で入れば家宅侵入で訴える 1気にそう吐いた氏はその日更に生徒監佐藤勝康(33)会計係村田芳太郎(36)教務主任太田耕2(34)の3名を解雇した、曰く「美術学校は僕を罷免したことによってなくなってしまった、したがって職員も不要である」と呵々大笑した |
昭和10年6月30日 日曜日
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昭和10年6月310日 日曜日 縺れ解けぬ 帝国美校 両派の言い分を聴く 29日を期して阿部代理校長を先頭に堂々入校式を挙行の予定にあった帝国美校盟休派は北氏一派の強引と学校派学生団の積極的行動とに機先を制せられて計画に幾多の齟齬を来しその間盟休派の最も信頼する同校創設者木下成太郎氏の軟化説まで喧伝せられその上校舎の所有権をめぐってのむつかしい法律問題まで持ち上って同派の企図する校舎乗っ取りの最後的手段も当分絶望視せらるゝに至った一方学校側は問題の急速的解決を避けて事件を暑休後まで持ち越さんとするの作戦に出ておもむろに盟休派の倦怠と自壊とを待たんとするものゝ如く急速的に解決をあせる盟休派を尻目に27日来同校を厳重に閉鎖し監視人を置くのみで同校幹部は全部引揚げてしまったので問題の解決は今後相当永引くものと思われる 「北昤吉氏談」 27日午前7時杉並区井荻町2の3の私邸に当面の人北昤吉氏を訪れる 盟休派が入校式を行うなんてそんな馬鹿などが出来るか校長は止めたが校舎は俺のもので現在では完全に俺の私有物だ、唯れ彼れの差別なく無断で入って来れば住居侵入でやっつけるまでだこうなれば俺と木下との1騎打ちで校舎などは立ち腐れになっても構わないあんなことくらいでへたばる俺ぢアないよ と意気軒昂たるものだ 「名取堯氏談」 おなじく井荻町3の1に盟休派の中心人物前同校教授名取堯氏を訪う 問題が解決点に近づいた様な噂もありますが当方では関知しないことです校舎は北氏個人のものでは無く学校の財産ですから北氏が所有権を主張するのは間違っています、すべて法廷で明白になることゝは思いますが同氏のやり方は余りに無茶過ぎる様です、今度の事件に関しては私ども深く責任感じており社会に対しても学生諸君に対しても本当に申訳ないと思っているのです。 |
昭和10年7月4日 木曜日 きょう仮校舎で入校式挙ぐ 美術学校の盟休生 帝国美術学校の盟休生の入学式は4日午後2時半から東京市杉並区杉並中学校を仮校舎として挙行に決定した、右は現在校舎は北氏対木下氏の訴訟問題に阻まれた結果で、或は西洋画、日本画、師範科約百名、校長代理安倍幸一郎氏司会となって行うもので、翌5日午後2時から図案科、彫刻科約50名の入校式を行い当分同校を仮校舎として事務所は武蔵野町吉祥寺33〇の現卒業生代表事務所に設置と決定した 入校式に先立ち代理校長安部氏は4日午前0時から東京市杉並区井荻町信用組合で教授会を開き処分学生の取扱方の件、夏休み期間、新組織に基く教授方法等を協議する、府では3日新校長に木下成太郎を正式任命、更に仮校舎として杉並中学使用の件を認可した 問題の訴訟は設立者木下氏が帝国美術学校は授業をする為めに設立したものである、破壊、移転などは困ると東京地方裁判所に仮処分の申請をした、これに対して北昤吉氏は設立者は木下氏と言うが同氏は名のみで学校に関しては何等の権能なしと仮処分に意義を申立をしたものである |
昭和10年7月4日 木曜日 帰る家なし 盟休生何処へ 帝国美術学校の盟休学生側では校長北昤吉氏罷免により目的達成せりとなし、新代理校長阿部幸一郎氏によって晴れの入校式を挙行する迄に運んだが学校側ではこれを見越してか暑中休暇を繰上げて去月27日から実施し、校舎は堅く閉鎖して『北昤吉所有』の表札を掲げ正門には監視人を配して何人によらず1歩も入れまじき構えをしている、最初盟休側では校舎は帝国美術学校校長北昤吉の名義で登記はしてあるが、校長罷免と同時にその所有権は当然新校長の権利になるものと解釈していたものらしいが校長を罷めても校舎は依然として北氏の所有であるという事となり、折角勝ち誇っていた盟休学生側も今度は見事負けとなった、これがため盟休学生側では学びの庭を失ったまゝ1両日中に入校式ならぬ盟休解散式を挙行してそれぞれ帰郷し何れまた9月の2学期に入って何分の解決を見る事となったが『盟休学生よ何処へ』の観があり成行が憂慮されている |
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昭和10年7月5日 金曜日 盟休も雨に流して きのう帝国美術学校入所式 1寸、不穏の空気 昨報、帝国美術学校盟休生の入校式は4日午後3時から東京市杉並区中通りの杉並中学校で挙行、この日は西洋、日本、師範科生200余名豪雨の中に出席し木下代議士秘書植原伊八氏の開会の挨拶、内田府議の経過報告、代理校長に推された安部幸一郎氏の入校に関する訓辞及び処分された学生の取消等を発表、同氏に次いで金原省吾氏から教授会の結果と今後の教授につき各氏からそれぞれ話があって午後4時半式を終了したが図案科、彫刻科は5日午後2時半から同所で前日同様の方法で挙行するが遮2無2現校舎で入校式を挙げんとし不穏の空気を漲らせこれが為め田無署を緊張させたが同署の忠告其の他か●前記杉並中学で挙行した為め不祥事も出来ず警戒に出張した杉並署員や田無署特高、情報省警官と手もち無沙汰であったこれで同問題も1段落となり吉祥寺の学生代表事務所も今5日何●も引き払うことになった[写真は美術校盟休生の入校式 内田府議の報告] |
昭和10年7月5日 金曜日 北校長解任され 同派生徒府へ陳情 校舎使えぬ木下派 帝国美校騒動 武蔵野町吉祥寺の帝国美術学校は校主木下成太郎氏が校長北昤吉を解任する旨を知事に届出てあったが去月24日付で3日知事から北校長解任の発令があり後任校長には木下氏自身が就任すべく申請中これも3日付を以て知事から認可された、これが為同校数310-数10名の全生徒は2分され300余名は木下氏に付き20数名が北氏に付く事となったので北氏に付く図案科生徒20余名は4日数名の代表を挙げて府学務課へ池田課長、2階視学官を訪ひ 木下氏は名義上本校の設立者であるが実質的には北氏に対して一切の経営権を譲渡したものであって杉浦教授の証言もある故に府当局立会いの上木下、北両氏を会見させ双方の意見を聴取して解決する様●●(判読不能)されたい と陳情したが府当局はよく調査をして見ると慰撫して引取らせた、又木下新校長は実際の株主であっても校舎は北氏の名義に登記されてあり北氏が占拠して立入らせないため4日午後3時から杉並中学校に日本画、西洋画、師範の3科学生百余名の入学式をあげ今5日は図案科、彫刻科50余名の入学式を挙行当分同校で授業する事となった |
昭和10年7月110日水曜日 帝国美校公判 2ヶ月にわたって醜争を続けていた吉祥寺帝国美術学校の騒動も盟休側の仮校舎への引き移りと共に正面衝突の危機も一先ず解消して1段落の形にあったが、今度は両派の確執が法廷にまで持ち出されて愈々10日午前9時東京地方裁判所第4号法廷で第1回の口答弁論が開かれることになり、醜い両派の内幕が更に白日下に暴露されることになった、この日盟休側では府議天野頼義弁護士を代理人として所有権に基く校舎の明け渡しを迫る訳で、これに対し北氏側でも所有権確認の反訴を提起しており、問題は相当紛糾を予想されている、なお9日午前9時府議内田秀五郎、代理校長阿部孝二郎氏は田無署を訪れ事件の経過について種々釈明して引きあげたが、同署の方針としては問題が法廷問題となった以上、静かに成行を注視し絶対に干渉がましき行動を避けることになった |
昭和10年7月11日 木曜日 初ッ鼻から論戦応酬 学校側たじたじ 美校問題今度は法廷戦 盟休から遂に法廷戦にまで発展した帝国美術学校騒動にからみ同校(設立者木下成太郎氏)が北昤吉氏を相手取った仮処分(校舎明渡)申請の第1回口頭弁論は、10日正午東京地方裁判所第7部黒川裁判長係りで開廷、原告代理天野、佐々木両弁護士、被告(北氏側)代理角岡、梅谷、山下、正木各弁護士出廷し、更に原告学校側の金原教授や府議内田秀五郎氏をはじめ数0名の 学生が傍聴席を占め「北氏が来なくては面白くない」などの囁きが交され民事廷に珍しい緊張ぶりを示せば、盟休学生団のデモや北氏をめぐる右翼団の行動など飛びちるデマに神経を尖らせた所轄丸之内署から4名の警官が法廷の内外をかためて物々しい光景だ まず原告側の仮処分申請に対し被告代理人は断固拒否の意志を明らかにして逆に『未だ財団法人たる帝国美術学校が訴訟当事者たるの資格なし』と法律論をふりかざして迫れば学校側の天野、佐々木両弁護人は意外な攻撃にやゝタジタジの体で財団法人資格の陳辨を試む 裁判長は合議の末 『本問題はこの程度にして事件の進行をはかりたい』 と助け船を出して北氏側代理人をなだめ漸く本筋に入ったが、初ッ鼻から鋭い論戦の応酬に法廷は早くも喧嘩腰の有様、原告が北氏の経営を不当とする盟休事件その他多数の証拠を申請すれば北氏側も 『設立者木下成太郞氏は北昤吉氏に単に経営を委任したのでなく経営権を譲渡したのであるから仮処分申請は不当だ』 と多数の証拠を申請し 結局次回を8月16日午前9時半から再会続行して証拠調べを行うことになって午後2時閉廷したが、学校側代理人が 『北氏が先に7月2日頃には現校舎を東横沿線に移転すると言明したことがなり、仮処分上困るから早く進めて貰いたい』 といえば北氏側代理人は『それは其の場の買い言葉でその心配はない』と弁するなどユーモラスな場面もあった、尚北氏側も学校側に対抗して木下氏の設立者たる権限の仮処分を申請するなどなかなか鼻息が荒く愈々法廷泥試合の色を深めるに至った |
昭和10年8月16日 金曜日 悩みは続く その後の盟休 武蔵野町吉祥寺、帝国美術学校騒動は行く所迄行って『校舎所有権の確認』を巡って校主で新校長木下成太郎代議士と前校長北昤吉氏とが目下東京地方裁判所民事部の法廷で係争中である、校舎を失った、盟休学生側では杉並区荻窪の杉並中学の校舎を借り受けていたがいよいよ暑休明けの9月から第2学期の授業を開始する事になっている、然し校舎は前記の如く裁判の終結まで使用出来ず、また先に借受けた杉並中学は美術の教育には不向でありかつ永久に借受けられぬ事情があるので再び校舎を失う事となり、一時は勝った盟休学生も2学期を控えて学生よいずこへの感を深めている 昭和10年8月28日 水曜日 北昤吉氏一派 新校創立を出願 目蒲電を後援者に 吉祥寺町の帝国美術が校は職員間の暗闘が原因して過般の学校騒動を惹起し終に生徒までが北校長派と学校所有者木下代議士(北海道選出)派の2派に分離して紛争した結果 木下代議士は北校長から学校の所有権名義その他一切を取上げたため 校長北昤吉氏は目蒲電鉄会社を後援に得て自派の教員牧野虎男、杉浦朝武、近藤清吾の3氏と共同で新たに世田谷区玉川上野毛町332へ多摩帝国美術学校を創立するに決し26日横山知事へ許可を出願したが 創立費は59,500円備品費15,000円で本科5年研究科選科1年以上で地主との契約を目蒲電鉄が斡旋し許可次第校舎建設に着手する事となっている |
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昭和10年8月21日 水曜日 教授入替へ 和解の曙光みえて 帝国美術学校新学期の準備 北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校紛争は目下東京地方裁判所民事部第4号法廷で審理中北昤吉氏側より和解の希望あり其の方に進んでいるので創立者木下成太郞側では近く和解するものと見て新学期初めか或は9月10日頃からは現学舎の使用も出来るものとし2日午前0時半学校側の教授名取堯、金原省吾両氏は田無署に上野署長を訪問種々懇談和解後校舎使用につき了解を求めたこの紛争により新校長木下成太郎氏代理の安部幸一郎氏は面目を1新して 美術院の新会員鏑木清方氏を日本画に富本憲吉氏を工芸課に佐藤朝山氏を彫刻科に前帝展審査員中野和高氏を洋画に何れも新進教授として採用した外図案の杉浦非水洋画の牧野虎雄氏彫刻の吉田三郎氏等を退職せしめた 同21日午後1時から東地4号法廷で第3回審理が行われ和解条件が提出される筈である |
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昭和10年8月22日 木曜日 和解勧告に双方了解 美校問題・来る18日両巨頭出廷 [既報]帝国美術学校が校長北昤吉氏に校舎の仮処分を申請した事件は東京民事地方裁判所で審理中のところ黒川裁判長は法廷泥試合戦をみかねて職権をもって和解勧告をなし、其の顔合わせは21日午後民事裁判所黒川裁判長室で行われたが、原告学校側代表木下成太郎、被告北昤吉両氏とも姿をみせず各代理弁護人のみ出席し裁判長を中心に和解協議を遂げた、双方代理人とも断乎和解の色をみせなかったが裁判長は 事件が神聖なるべき教育に関するもの故穏便に解決して1日も早く平和な学校にしたい と調停の信念を披瀝したので各代理人側も木下、北氏と協議の上善処することになり来る9月18日午後2時木下、北両巨頭が出廷して愈よ和解調停の第1歩に入ることになった かくて事件は黒川裁判長の努力によって険悪な空気を多少和らげるに至りその推移を注目されている |
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昭和10年8月24日 土曜日 学校備品持出し 理屈を盾に北氏側が 帝国美校の紛争 [既報]北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校は紛争中で目下東京地方裁判所民事部第4号法廷で所有権争いを行っている矢先前校長北氏側は校長を解職されても校舎は自分ので新校長とは一切の引継もしていないと昨今学校備品を他に転出せしめているこれを知つた新校長側は田無署に転出中止方依頼した所北氏側の前職員村田芳太郎氏はまだ引継ぎもなしそれに持出することに不服があるなら過般の審理前のことであり裁判所に於て不服を唱える訳けだ警察は内田府議や天野府議に利用されている又両府議が府議の肩書を濫用するなら我々は直接総監に依頼する と田無署に抗議を申込み同署は取締しなければ前記府議等にやられやれば北氏側から総監につき込まれ全く板挟みの形となつて上野署長もスッカリ面喰らっている 昭和10年9月1日 日曜日 帝国美校の新校開校 目下紛争中にある武蔵野町吉祥寺帝国美術学校は北前校長側は東横沿線上野毛に多摩帝国美術学校創立方を東京府に申請しているが新校長木下成太郎代議士は前校長排斥から1ヶ月余に亙り盟休していたので埋合せの為め2学期開始を10日早め2日から杉並区中通りの杉並中学を仮校舎として授業を初めることゝなつた 同校は既に●兵●●●(判読不能)につき盟休当時から憲兵隊に於て調査中のことで開始3日後欠席している場合は学●●●並びに憲兵隊への報告により除籍することゝなつている 因に開校に対し新規教授も左の通り発表された △日本画帝展会員鏑木清方△西洋画帝展会員梅原龍三郎、前帝展審査員中野和高、独立展会員高畠達四郎△工藝科帝展会員富本憲吉、東京美術学校教授森田亀之助、府立工藝校教諭原宏、建築家山脇厳、ブルノータフト、松竹舞豪部員三林亮太郎△彫刻科帝展会員佐藤朝山△師範科東京文理大学教授佐々木秀一 |
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昭和10年9月3日 火曜日 “校舎は捨てゝも校名は譲れぬ” 帝国美術学校長の始業式演説 北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校は新陣客の下に新校長木下成太郎氏代理阿部幸一郎氏の手により紛争中のことで本校舎が使用出来ず杉並区宿町中通りの杉並中学校を仮校舎に借用2日から授業を開始したこの日出席者200余名専門校としては好成績で阿部代理校長は開校に当り左の如く訓辞した 現校舎は目下紛争中で使用出来ぬが●●として生徒に迷惑を掛けない様尽力致したい生徒の為めには如何なる犠牲をも払う、目下前校長北昤吉氏は校舎はやるから校名をよこせと言って居られるが校名をやれば結局つぶれるわけで我々としては絶対に聞き入れられない話しです、紛争和解は相当永引くものと見られるがその場合は新校舎を建てても生徒諸君の為めに計りたい 等約1時間に亙り訓辞したが同校では来る18日午前0時から仮校舎に於て父兄会をも開き今後の方針其の他を協議することになった |
昭和10年9月1日 日曜日 前校長に対抗して 盟休派も授業 陣容を更新して明2日から [既報]吉祥寺の帝国美術学校騒動は前校長の北昤吉氏派、新校長木下成太郎氏派と2派に分裂し 前者は既報の如く東横線上野毛に『多摩帝国美術学校』を創立する事に決定して既に府当局の手続を了したが 後者は暫定的校舎として杉並区中通りの杉並中学を借り受け陣容を新たにしていよいよ9月2日から第2学期の授業を開始する事となった収容学生は例の盟休組で約300名位と見られている |
昭和10年9月1日 日曜日 帝国美校は 完全に分裂 北氏は新校設立へ 一挙170余名に上る反校長派学生の処分より逆転、北校長自身の罷免へと目まぐるしき変転を続け更に校舎立入り禁止の大詰へ近付くと共に遂に法廷にまでその醜争をかつぎ出し近く第4回目の公判を控えて益々紛糾を続けている吉祥寺帝国美術学校のお家騒動は9月の第2学期を迎えて依然として解決の曙光見えず強引に東横沿線上野毛への移転を強硬せんとする北氏の一派はすでに同地へ多摩帝国美術学校なる新校設立の計画を進め同氏を支持する杉浦非水氏等とともに着々準備を進めているがこれに対し木下成太郎氏を支持する新校長派は名取堯、金原省吾氏等を中心に杉並区西荻窪杉並中学校の校舎を借り受けて立て籠り帝国美術学校死守の決意を固めて北氏に対抗し陣容整備に努めていたが30日に至り北氏側と目さるゝ佐藤村田の両学生監、杉浦教授等の反木下派の教職員を一掃するとともに新たに左の諸氏を任命、9月2日より授業開始の旨を発表した 日本画科、鏑木清方外3名、西洋画科、帝展会員梅原龍二郎、前帝展審査員中野和髙、独立展会員高畑達四郎外1名、工芸図案科、帝展会員富本憲吉、東京美校教授森田亀之輔、師範科、文理大教授佐々木秀一、建築科山脇厳 |
昭和10年9月8日 日曜日 多摩帝国美術学校認可 校長に杉浦非水氏 生徒の排撃から遂に2分し目下東京地方裁判所で係争中の武蔵野町吉祥寺帝国美術学校は盟休学生派が木下成太郎郞氏を新校長に迎えて杉並中学を仮校舎に当て授業を開始するや、排撃された北昤吉氏側は杉浦非水氏を校長に、元警視総監丸山鶴吉氏を後援会長に、三井合名会社の米山梅吉氏らを校賓に迎えて世田谷区玉川上野毛343に多摩帝国美術学校を設立府に認可申請中6日許可となったので上野毛の仮バラック校舎で7日始業式を挙げ9日から授業を開始することゝなつた、校長以下職員は左の諸氏である 名誉校長北昤吉、校長杉浦非水学監井上忻治、学科同人洋画科牧野虎雄、図案科杉浦非水、彫刻科吉田三郎、日本画科郷倉千靱、主事渡邊泰亮、学生監村田芳太郎 |
昭和10年9月8日 日曜日 多摩帝国美校 木下成太郎氏一派の吉祥寺帝国美術学校の一派と分離東横沿線上野毛へ多摩帝国美術学校創立計画中の北昤吉氏は6日当局より設立認可の指令に接するとともに新たに同校理事長に前満鉄副総裁國澤新兵衛博士を挙げ陣容を整備するとともに工費70,000円をもって720余坪の新校舎の建築に着手来る10月初旬までには落成開校の見込である |
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昭和10年9月19日 木曜日 紛争の帝国美校は 女子商業に早替り 所有権も確定しないに北氏が売り飛ばす 所有権確認の法廷闘争に鎬を削つている吉祥寺帝国美術学校がその所有権帰属者も確定しない18日突如第3者に身売りされて近く『女子商業学校に』看板が塗り代えられる事になり関係者を唖然たらしめている、売り主は同行を釘付けにしたまゝ5百余名の学生に締め出しをくれて東横沿線上野毛に多摩帝国美術学校を創立中の前校長北昤吉氏で買い主は吉祥寺351に住む佐藤勝康だ、1,000余坪の同校舎そっくり15,000円で売買契約が成立来る2日に登記を済ませて早速女学校に看板を塗り代えようという訳だがそれを聞いて驚いたのは名取、金原氏等を中心とする木下校長派で18日午後名取氏は狼狽し田無署に出頭真相の調査を依頼して引き揚げたが紛糾中の同校々舎問題もここにまたまた新人物が登場して益々複雑混沌化の情勢に立ち至った “帝美”の改革派 新校舎で持久戦 敷地借入を契約 杉並区西荻窪の杉並中学に間借り授業を続けている木下成太郎氏中心の帝国美校派では校舎所有権解決が当分不可能である事を見越して新校舎を建築する事になり現校舎に隣接する同町52○に25,000円の予算で3百坪の新校舎を急設する事になり18日午後地主同町小美濃文太郎氏と敷地借り入れ契約を結び持久的対抗戦術をとる事になった |
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昭和10年9月20日 金曜日 紛争の「帝美」に“土地は貸さない”と 此度は地主も渦中へ 変転、混沌関係者等をすら面喰らわせている吉祥寺帝国美校の醜争は同校を女学校の薔薇色に塗り代えようとする新人物佐藤勝康氏の登場によって益々事件は複雑化し同校舎をめぐって北、木下、佐藤の3氏が三巴の角突き合いを演じているが19日今度は地主の同町小美濃文太郎氏がとうとう怒り出し北氏に対し借地契約の破棄を通告すると共に新所有者佐藤氏に対しても右校舎の撤去方を通達同敷地は今後何人に対しても絶対に貸与せずと力み出しこれまた敷地明け渡し要求を法廷にかつぎ出した、こうなると騒ぎは益々大きくなる、デマは飛ぶ田無署でもこの取締にはスッカリ手を焼いているがこの醜争今後幕となるまでには相当の波瀾をまき起こしそうな形勢だ |
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昭和10年9月24日 火曜日 身売り取消で北氏を訴う 紛争の帝美 目下紛争中の武蔵野町吉祥寺帝国美術学校の校舎身売問題は成行きを注目されていたが遂に売買は不成立となり、今度は相手方の佐藤勝康氏から約束不履行による損害賠償金として北昤吉氏に1,000円要求の訴訟を起すことになった、右につき佐藤勝康氏は語る 私はもと美術学校に生徒監として居りましたが目下の問題について深い事情を知らず、北昤吉氏の言を信じ校舎も北氏のものと信じて居りました訳で、日大が芸術科プロダクションを設置しようとしているので交渉した所既に其の方は決定、顧問の山岡万之助氏等が女子専門学校にと私の名義で買収する話を進めていたのですが、私の方で登記を迫った結果、この程売買契約を取消し今後一切縁故を断つとの書面をよこしたので、これ迄の費用其の他を要求する訳です |
昭和10年9月24日 火曜日 混乱の“帝美”へ 日大の触手 校舎は今日差押へ 醜争の渦中にある吉祥寺帝国美校へ今度は日本大学が属目同校藝術学園の移転を目論んで同校松原寛教授等が暗躍を続けている、問題の余りにも複雑多角的なのに驚いて吉祥寺佐藤勝康氏が同校の買収を断念問題圏外へ後退すると同時にかねて校外へ適当な移転地を物色中の日本大学藝術学園が松原寛教授を通じて同校の買収に着手数日来極秘裡に北、木下両氏をはじめ地主の小美野氏等に対して折衝を行っているが校舎売却問題の表面化に極度に狼狽した北氏は百方揉み消し運動に狂奔しており木下氏は右売却には断乎反対を表明しているのでその成果は頗る疑問視されている、なお右校舎売却問題表面化とともに対策考究中の木下校長派では23日突如天野頼義弁護士を代理人として右校舎保存のため差押えを断行北氏の機先を制し同校を買収し女子専門学校を創立せんとして100,000円の資金を調達買収不能に陥った佐藤氏も北氏に対し右契約履行不能による損害2000円也の賠償請求を長谷部弁護士を代理人として提起23日右校舎内部備品の差押え方を申請し問題は益々複雑拡大の情勢にある |
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昭和10年10月2日 水曜日 帝美審理開廷7日に繰上げ 問題の武蔵野町吉祥寺帝国美術学校事件は去月19日の第4回目の審理が本月16日に延期となっていた所新校長派から至急審理方申請したので7日東京地裁民事部黒川裁判長の下に開廷と決定した一方新校長木下成太郎氏は同校隣地に1,200坪の敷地を求め5百坪2階建2教室の新校舎を約30,000万円で建築することになり卅日午後3時から地鎮祭を挙行した、差当り3教室は本月中に完成させる予定 |
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昭和10年10月6日 日曜日 帝国音楽学校いよいよ移転 [既報]紛争の結果校舎が使用出来ず目下杉並中学校を仮校舎として授業をしている武蔵野町吉祥寺帝国美術学校では現役校舎南側に1千5百坪の敷地を求めて過般地鎮祭を施行3日より工事に取りかゝったが 校舎は東京お茶ノ水女子師範学校旧校舎が意外に手に入ったので其の儘同所に移転することゝなりこの10日頃には1部移転を終ることになるので授業を同所で開く外30日が同校開校記念日なので盛大な記念式を同所で行い記念展覧会をも催すことになった |
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昭和10年10月9日 水曜日 家財道具を置去り 一家奇怪の失踪 帝美校紛糾に巻込まれた? 主人は同校卒業生 衣類家財道具を其の儘去る5月以来鍵もかけず帰宅しないと言う謎の家が北部武蔵野町にあり付近の評判となつている、この謎の家は同町吉祥227○帝国美術学校卒業生藤原庄治(29)方で同家には妹ナツ(27)従弟貞一郎(28)従妹まち子(21)の3名が寄寓していたが帝国美校問題当時藤原は盟休生に応援同家でクラス会など開いたことがあり其の後の失踪で付近では学校紛糾当時北氏側が守衛として某右翼団員を雇い入れたことゝて或は同氏等の手により何れにか監禁でもされているのではないか、それにしては何れかで5ヶ月を過ぎんとしていることで何とか判るさもなくば家財道具や衣類を其の儘として置くこと故何んとか話がある筈だのにと噂が噂を生んで所轄田無署でも調査中であるがいまの所1向判明していない(写真は謎の家) 「田無署直ちに 行方を捜査」謎深まる数々の道具 田無署では前記謎の家につき8日杉田情報係、今成特高、宮駐在員等が謎を解くべく同人等の行方を捜索する一方調査の結果謎の家の之は秋田県雄●郡三梨村字三梨に漬物商を営んでいた藤原庄治(29)が妹なつ(27)従弟貞一郎(28)従妹まち子(21)の3名を伴い昨年9月2日前記の家を家賃2円で借り同所に絵画研究所の如きものを営んでいたがこれとて収入なく2ヶ月程家賃を納めたのみで12月以降滞納となっていたことが判明した この家は東京市深川区木場町16末永力太郎さんの所有でこの知らせを受け駆けつけ室内調査をした結果によると書籍、タンス、寝具、勝手道具、テーブル家具、時計、風呂桶等を始め黒サヤ1尺9寸余の日本刀などが現らわれたのでこれは田無署で危険と見保管することになった 不審がる駐在員 同家の受持宮駐在員は語る 去る6月3日に戸口調査察に赴いた時不在で其の後も数回行きましたが何れも不在でありましたが室内は其の儘の様ですから使いにでも出たものと思っておりましたがあまり長いので近所の人達も心配しだしたので調べることにしました 近隣家の小林源太郎さんは どうもこの頃変だと思って注意しておりましたら1向人が来ません、5月初旬は色々の人が来てヴァイオリンなどをひいたり唄ったり普通の人達の様でありませんでしたので家内などもなんでしょうと言っていた程です、この家は人がチョイチョイ変りどうも居付きが悪いもので今迄何人変ったか知れません 不思議な看板 堂々帝美校門に掲ぐ [既報]北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校の紛争により現役校舎が双方共に使用されず目下の処雑草生茂りスゝキは我れ顔勝ちに成育現校舎は全くスゝキや雑草に埋もれている前校長北昤吉氏は裁判の確定せぬのに●には売物に出し新校長派木下成太郎氏から裁判所に抗議が持ち出され有耶無耶に終った処又復北氏は校舎は自分のものなりと主張し7日校門には「拓開学生」と言う看板を掲げ玄関右側には縦6尺幅1尺5寸もある大看板に「大陸国策研究会」と言う頗る変った看板を掲げ道行く人々をアッと言わせている この研究所なるもの果して正なるものか相手方のいやがらせ的作戦か注目されるが同校が係争中のことゝて田無署も成行きを重視警視庁と打合せ内容調査中である[写真はススキや雑草に埋れた校舎と北前校長が掲げた珍看板] |
昭和10年10月9日 水曜日
看板を掲げ替へ“不開の門”開く その昔、帝国美校々舎 何時解決するやら予測もつかず、果てしなき紛糾の淵に喘ぐ吉祥寺帝国美校問題発生以来すでに7ヶ月釘付けにされた校舎内には筋肉隆々たる北氏輩下の国体擁護連盟の強そうなのが頑張り、人足絶えた校庭には茫々芒が生い茂り学校争議の痛ましい末路を如実にさらけ出して行人達の眉をひそめさせていたが8日突如廃墟の様な同校の玄関が久し振りで開放され校門には木の香も新しく墨痕鮮かに『拓開学術大陸國策研究所』といふ凡そ美校とは似ても似つかぬ厳めしい看板が掲げられ右翼学生らしい5ッ紋付の逞しいのが2、30名熱心に経典の講義かなにかを聴いている『海外開拓に須要なる人材を養成しあはせて大陸國策の研究を行う』いわゆる農民道場式のものなのだそうだが集う学生は何れも上杉学説の亜流をくむ愛国学生連盟の1員らしい、愈々こうなると帝国美校の行方が益々わからなくなつてくるが、同校舎回収を断念した改革派が隣地に建設中の校舎は今月中には完成、旧校舎と皮肉な対照の下に月末より授業を開始することになった |
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昭和10年10月22日 水曜日 “和解の方法なし”帝美校騒動事件続行公判で 北氏ハッキリ答弁 遂に和解不調に終った吉祥寺の帝国美術学校騒動事件の続行公判は21日午後3時半から東京民事地方裁判所黒川裁判長係りて開廷、原告学校側天野、佐々木両弁護士、被告北氏側角岡、山下、正木、梅谷各弁護士が出廷して例により多数の学生が押しかけ当の北昤吉氏と傍聴席で睨み合いの光景を呈した被告側角岡弁護人は原告提訴条項の不備を論難し審理を尽した裁断を下されたいと暗に却下言い渡しを求め、裁判長合議の上在廷証人北昤吉氏の訊問を行い、北氏は帝国美術の創立から現在に至るまでの事実、関係者、資金関係などを3時間に亙って詳述し、今回の盟休騒動に学生が △専門学校昇格遅延の責任問題を持出して折角計算していた東横沿線移転に伴う昇格案をメチャメチャにしたのは何者かゞ自分の追出しを策し学生を煽動したものである と例の調子で大見得を切れば傍聴席の学生からクツクツと冷笑が湧く更に天野弁護人から 北氏は設立者木下氏から経営を委任された譲渡されたかの重大問題については証をあげ補充質問があり、北氏は『譲渡されたのだ』と弁明に努め終りに裁判長から 『和解すべき案なきや』の問いに対しても 『今となつては和解すべき方法は無い』とハッキリ答えて午後7時閉廷、次回は11月11日午後2時続開する |
昭和10年10月21日 北氏へ差押へ 吉祥寺帝国美校に締め出しを喰わせて同校舎跡に拓開学術大陸國策研究所を開設して立て籠っていた北昤吉氏が今度はあべこべに締め出しを喰って校舎ぐるみ備品に至るまで差押さえられてしまつた— 18日午後帝国美校改革派木下氏一派は弁護士天野頼義氏を代理人として突如拓開学塾の差押へを断行同校に頑張る國體擁護連盟の一団と小競合いを演じた後校内備品全部を搬出して帝美校理事小美濃文太郎氏方に移管こゝにまたまた同校舎をめぐる暗闘は表面化して険悪なる空気を呼び起しているが田無署でも何時果てるとも知れぬこの醜争にはホトホト手を焼いており北派の動向を注視しているが北氏がこのまゝ黙って引っ込む筈がなくこゝ数日中には何等かの方法でこれに対する応戦手段に出づるものとの見込いで厳重警戒に当っており情勢は俄然悪化成行は頗る注目せられている |
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昭和10年10月29日 火曜日 “敷地”で一紛擾か 納まりつかぬ帝美校 北郡武蔵野町吉祥寺同町信用組合常務理事小美濃文太郎氏は目下紛争中の帝国美術学校に2,500坪を貸与していたが名義が前校長北昤吉氏となっているので新校長に変更せんと北昤吉氏に対し内容証明郵便で解約を申出た、一方小美濃氏は新校長派木下成太郎氏に新敷地1,000坪と旧敷地2,500坪合計3,500坪の賃貸契約をしたのでこれに対し北氏側は不服を唱えて居り又々敷地問題で1紛擾を見る模様あり田無署もホトホト同校については頭を悩ましている 「新校舎倒壊して記念式お流れか」開校記念日を前に帝美校狼狽 [別面既報]北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校は所有権確認其の他種々の問題により東京地方裁判所及び八王子区裁判所に於て審理中であるが現校舎の使用中止から木下新校長派は現校舎の南側に約30,000万円を投じて新校舎を建設中の所27日の強風雨により6分通り出来上がった校舎が倒壊大打撃を蒙り倒壊を逸早く知り防止作業に従事していた宇野組大工島田正藏(46)は逃げ遅れて梁に●●され瀕死の重傷を負い武蔵野町吉祥寺飯塚外科医院に収容されているが生命危篤である 同校は30日が開校記念日に当り新校舎で記念式を上げ記念作品展覧会を開く筈の所この災難に逢い関係者は狼狽している[写真は倒壊した新校舎] |
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昭和10年10月29日 火曜日 「帝美」校舎倒壊 27日午前11時頃帝国美術学校の新築中の校舎300余坪が折からの暴風に一大音響と共に倒壊豪雨中を必死の倒壊防止作業中の同町宇野組出張所内大工島田正蔵さん(43)は梁の下敷となって腰部を挫傷全治約1ヶ月の重傷を負った、同校舎は帝国美校の改革派が北昤吉氏に対抗旧校舎に隣接して工費25,000を投じて新築中のもので去る2日に上棟式を終り近く開校の運びになっていた、損害5,000円ぐらいの見込 |
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昭和10年11月4日 月曜日 帝美学校備品の差押え2重奏! 紛擾ますます深刻 北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校の紛争は依然として新校長派と旧校長派と睨み合いを続けて新校長派で学校備品を差押え地主の同町小美濃文太郎氏方に持ち運んでいた処旧校長派は更に又東京地方裁判所に補償金を納入前記差押え品の再差押えをなし世田谷区上野毛の仮校舎に運んでしまい、新校長派では非常に狼狽し善後策を講じているが今となっては全く子供の喧嘩に等しきものとなっている |
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昭和10年11月10日 日曜日 帝美校の備品 古巣に還る 来る23日から記念祭挙行 北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校の紛争はいつ解決に至るか子供の喧嘩のような争いを繰返し徒らに時日を要しているが今回帝美校に新理事として入った有力者佐伯某氏は内容調査の結果 前校長北昤吉氏が去る7月24日付校長を罷免されているに拘らず校舎は自分のものなりとして田無町登記所に保存登記を行った外この問題を北氏から依頼されている弁護士正木實氏名義にして校舎の賃貸契約を行わしめ前記同様田無登記所に登記を済せていることなどが判明、佐伯氏は前項を詐欺登記、正木氏名義に契約登記をしたことは問題当事者の行うべき筋合いのものでなくこれは明らかに弁護士として違法であると両項を以て北氏を相手取り東京地方検事局に告発したので同局の飯沼検事は過般北昤吉氏を召喚一方学校側から名取、金原両氏も招致双方の事実調べを行い其の結果 先づ北氏が自動車で運び出した学校備品は全部元通りに返すこと、学校側は同じ敷地内に学校増築をした理由から鉄柵を取りはずしたが其れも元通りの位置に設くべし と言渡しがあり更に近日北氏等の取調べが行われる模様である尚帝国美術学校では問題により現役舎が使用されずこれが為め過般来お茶の水女子高等師範の旧校舎を求めて隣接地に増築工事し同所で開校せんと工事を昼夜兼行で急いでいたが200坪の校舎が2室程が竣成したので11日から授業を開始し残り4数室の竣成を待ち来る23、4の両日を期し同校記念祭を盛大に行うことになった |
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昭和10年11月28日 木曜日 紛糾の帝美校に 漸く和解の兆 年内中に具体化か 吉祥寺帝国美術学校騒動に絡む続行公判は昨27日東京民事地方裁判所黒川裁判長係りで開廷される予定であったが突然12月2日に延期され同時和解に好転の曙光をみとめるに至り来る12月2日までに和解を具体化すべく学校側北氏派双方とも和解案を考究中である、難物の同事件が俄に好転するに至ったのは最近学校側、北派双方とも夫々新校舎を建築したので抗争の中心物たる旧校舎が使用価値を減じ従来程必要でなくなったのに起因しているが、両者とも和解の内容、進行は厳守に付し警戒している、その言うところを聞いてみると北昤吉氏代理角丘弁護士は 延期及び和解可能は先方が申出たので私の方では唯承知しただけで和解の内容なぞ知りません 学校側の木下成太郎氏代理天野弁護士は 北さんも漸く校舎は自分だけの物ではないとわかって来たし、先方の弁護士も法廷の形勢が北氏に必ずしも有利でないことに気付いたからでしょう、先方が知らぬなどというのは嘘です、北氏は強がりばかり言って居るのです と語った |
昭和10年12月1日 日曜日 美校騒動解決へ 7ヶ月の紛糾漸く解けて 北氏側から妥協提案 校舎所有権をめぐって醜い葛藤を続けている吉祥寺帝国美術学校騒動は木下、北両派共係争中の旧校舎をそのまゝに北氏は東横沿線上野毛に多摩帝国美術学校を設立して1日より開校、木下氏また旧校舎に隣接して30,000円を投じて新校舎を新築したため勢い旧校舎の価値は全く減殺された形になり最近に至っては両者間に大いに妥協の機運が動いていたが来る2日の続行公判を控えた30日午後北氏側代理正木弁護士は突如木下派天野弁護士に対し北氏が旧校舎の所有権を放棄することを条件として妥協を申し込んできたのでこゝに紛糾7ヶ月にわたった美校問題も急転直下解決に至るものと見らるゝに至ったしかし過去7ヶ月にわたって頑強に校舎の所有権を主張し木下派に果敢な爆撃を加えて譲らなかった北氏がかくも急速に1歩後退停戦を余儀なくされた裏●には北氏が決●●●上●校舎の所有権●●●上正木弁護士に●●したるが如き●●行為が暴露し木下氏側より正木弁護士に対し弁護士法違反として懲戒処分の告発があり●●の●勢の次第に北氏側に不利に展開する●察知した結果でその上●●の如く上野毛新校も開校となつたので1転妥協機運が動くに至ったものでこゝに7ヶ月ぶりで一切が解消した訳である |
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昭和10年12月21日 土曜日 帝美紛争明春に持越しか 妥協ならず 吉祥寺の帝国美術学校騒動に絡む民事係争事件は既報の如く原告学校側(木下成太郎氏)被告北昤吉氏側双方歩みよりで妥協成立の曙光を認めるに至ったので先頃の東京民事地方裁判所続行公判を昨2日に延期し原告側天野、被告側角岡各主任弁護士間に妥協案の折衝を重ねていたが具体的項目に於てなお喰違いの点があるため間に合わず双方弁護士は2日午後東京民事地方裁判所黒川裁判長を訪れ協議の結果、同日の公判を来る27日に延期しそれまでに極力切衝解決を急ぐことになった なお現在の情勢では両者がなお1層の譲歩を示さぬ限り27日までに解決は困難で結局明春に持越されるのではないかとみらる |
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昭和10年12月28日 土曜日 帝美校の紛争 明春に持越し 最後の公判延期さる 例の吉祥寺の帝国美術学校騒動に絡む訴訟事件は学校側、北氏側の歩みよりで昨27日最後の公判を開いて妥協案を決定することになっていたが双方の言い分に未だ開きがあって遂にまとまらず東京民事地方裁判所黒川裁判長は明春に延期(期日未定)したので休戦状態のまゝ越年することになつた |
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昭和11年5月29日 金曜日 帝国美術校 また不穏 双方対立激化 昨年4月校長排斥問題から端を発し係争1カ年余に亙る北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校は前校長北昤吉、新校長木下成太郎両氏が双方とも仮校舎を建設地方裁判所で本校舎の使用を禁止し目下審理中だが 28日本校舎の所有権を有していた東京市杉並区井荻町2ノ15宮口勝次郎(32)氏と新校長木下成太郎側の貴族院公正会政務調査部佐伯錦洲氏との間に妥協なり八王子区裁判所で無条件により本校舎使用和解書を取交したゝめ木下校長は28日正午を期し仮校舎から本校舎に転校したところ、北氏から依頼され留守警戒中の祖國会経理部々員最上貞藏氏等は狼狽北氏にその旨通告したので同氏側から弁護士正木博氏北氏の経営す多摩帝国美術学校主事渡邊泰亮氏外生徒等が駆つけ双方に不穏の気漲り田無署から上野署長以下多数署員急行警戒中であるが問題は北氏から本校舎の使用権を依頼されていた宮口氏が教育上問題を憂慮し単独和解に応じた為めかかる険悪の結果を見るに至ったものである |
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昭和11年5月30日 土曜日 嵐を孕む帝美校 学生側は新校を占拠し授業開始 [昨報]北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校紛争再発につき所轄田無署では問題の拡大を憂慮し今成特高外数名の警戒員を派して学校内外を厳重警戒せしめている、一方和解がなったとて使用禁止中の本校舎を占拠した帝国美校側は木の香も新しく「帝国美術学校」の看板を掲げ2年以上の生徒はドシドシ授業を開始したので上野署は極度に狼狽授業のみは中止されたいと申出でたが、八王子区裁判所の使用許可書を見せられたので何共手の出し様なくこれに対し北昤吉氏側の多摩帝国美術学校側は東京地方裁判所に至り差押執達吏を動かさんとしたが 右は2,500円の保証金を積み木下帝美校側に於て本校舎の差押を要求していたので従って執達吏も同氏派に属し本校使用和解が成立したので木下氏は差押執達吏の解除を手続きした為め北氏がこれを利用せんとしたるも結局問題とならず北氏はいささか業をにやした形であり同氏派の正木弁護士の如きは飲酒の上本校に現われ他人所有物に無断侵入するは不法である、ピストルを利用しても我々は必ず不法侵入者を追払って見せるなど暴言を吐き何時如何なる乱闘に至るやも知れず、本校舎をめぐり問題は至って不穏の気勢を見せている |
昭和11年5月30日 土曜日 北氏、田無署へ 学校側とは没交渉 沈黙の帝国美校問題 北多摩郡武蔵野町吉祥寺の帝国美術学校の紛擾は既報の如く学校側が保管者宮口将軍氏(35)の取計いで問題の校舎へ仮校舎から移転を決行した為所轄田無署では北氏側がどうでるかと制服巡査0数名が1夜学校を警戒した、学校側の移転決行の報を知った北氏は28日夜田無署を訪れ上野署長に面接して 保管者宮口将軍氏から学校側に旧校舎へ移転をさせる事なぞの話は全然受けて居ない 旨を述べて退署したが北氏は直接田無署を訪問したのみで今回の問題に付いて学校側には交渉に出ない、29日朝学校側は新しい帝国美術学校の看板を問題の旧校舎の玄関に掛け冷静である[写真はその日の校門] 「宮口氏の行方不明」 保管者宮口将軍氏は学校側に問題の旧校舎へ移転させた後28日夕刻頃突如の姿を消し29日に至るも判らず目下田無署では宮口氏の所在を探しているが宮口氏は北氏とは今迄深い関係を結んでいた人物であり今回の移転決行問題で姿を消した行動は何か宮口氏と北氏との間に問題があるのではないかと疑問視されている。 |
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昭和11年5月31日 日曜日 授業中突如乗込み器物を持ち出す 東京区裁判所より明渡し命令 帝美校の紛争激化 [既報]不穏の空気の中に本校を占拠田無署員の厳重な警戒の下に3日を過ごした北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校問題は依然険悪の空気が漂い上野田無署長等は万一を憂慮府下署長会議にも出席せず帝美校に張込み警戒に当るなど物凄い緊張味を見せている一方差押校舎を和解なれりと占拠した木下派学生につき北派では事件は東京地方裁判所に於て係争中なるも所有権を有する我々に1言の話もなく和解調書を提出した八王子区裁判所に安藤、渡邊両顧問弁護士が出張不法を詰め寄った外東京区裁判所に差押家屋の点検を申請したので同所から山内執達吏及び安藤、渡邊両弁護士等が本校に出張点検をなした結果八王子区裁判所に於て和解調書作成の事情は不法にあらざるも右は目下係争中にある問題の校舎なるが故にこの際は双方共に使用を禁止する必要ありとの結論から30日午後3時に至り本校を占拠授業を開始した帝美校に対し速やかに明け渡すべしと命令を発した為め双方の対立愈よ激化するに至った モデル女は悲鳴! 執達吏ら襲い校内は大混乱 八王子区裁判所に於て和解調書を北氏側の宮口唯一氏と取りかわし差押えとなっていた本校舎に移転したるも僅か2日にして又復明け渡しの命令を受けた木下派ではこれに不服を唱えたるも法の命令なる為め一時明け渡し、あらためて北氏に折衝することゝなったので北氏は人夫20余名を入れ内山執達吏の指揮を求めて突如授業中の校舎に乗り込み生徒を追出し器物の持出しを開始した為めモデル女などは悲鳴を上げ学生と共に右往左往大混乱を演じ午後4時迄には校庭裏表に全部搬出及び本校は内山執達吏の手で封印される憂目となり学生等は極度に憤慨している右につき木下派では語る私等は何等不法でないと信じ移転したものですが法の命令には従うより仕方がないので1時明渡しますがこれはスグ話が解ることだと思います、一番気の毒なのは生徒で我々は教育上非常に心配しております、又北氏側では宮口なるもものは元本校の留守番をさせていたので校舎について何等の権限を有する者ではないそれをどう言うことか八王子区裁判所に至り私等に無断で和解調書を作製したので之に対し私は不法だと思うより仕方ないので本日執達吏の点検を求め明け渡しを要求したのです [写真は折角運び込んだ器物を又運び出される所] |
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昭和11年6月3日 水曜日 インチキな”和解真相”学生は大憤慨 美校問題ますます紛糾 北郡武蔵野町吉祥寺帝国美術学校問題については其の後も北昤吉派と木下派のいがみ合い険悪の為め田無署では万一を心配し警戒中である●の和解とみられたものゝ真相は宮口勝次郎氏が北昤吉氏の依頼で校舎の留守番役を務めていたが数日前解雇されたのを木下派の佐藤某が貴族院校生会政務調査部勤務佐伯唯一という者と協議、前記解雇されて憤慨していた宮口勝次郎氏を口説き「君は1任されていたのだからこの際教育問題を重視して校舎使用を認めて呉れないか」とのことに宮口氏もこれに応諾、双方八王子区裁判所に至り双方調印の上和解書を作製したもので八王子区裁判所は北氏の代理だと宮口氏が言っているのでこの和解を認めたものであるが両者間には北氏や木下氏に何等話をせず中間策士に於て勝手に和解書を作ったもので何んにも知らない学生達のみよい面の皮であり何れも不平満々たるもので1体いつになつたら落ちついて授業が出来るやらと前途に不安を抱いている |
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昭和11年7月28日 帝美校校舎の使用を許可 校舎の所有権を争い互いの頑張りから一ケ年余になった今日未だ解決されない北郡武蔵野町吉祥寺の帝國美術學校については過般新校長木下成太郎氏側が自から校舎の差押を申請して置きながら一寸した手違いで開放申請をし北旧校長派が直ちに看板も新らしく「日満學校」の看板を掲げ一方北氏は直ちに高倉寛なる者に校舎を賃貸仮名義で譲渡してしまったこれを知らぬ新校長木下成太郎側は自派の手違いを狼狽し再度差押の申請をした所既に校舎が他人名義となっているのであらためて高倉寛氏の所有校舎の差押を申請したので今回この校舎は東京地方裁判所執達吏小野領四郎氏のものとなり双方使用を禁止されたが25日付左記公示書にもとづき同校生徒に美術學藝を教授する目的の範囲で使用することは許可する旨木下側に通知があったので同派では27日から夏季に於ける美術研究を同校舎に於いて開始することとなった。 公示書 当家屋は申請人木下成太郎外二名對被申請人高倉寛間の東京民事地方裁判所昭和11年 第1、124号仮処分命令に基き被申請人の占有を解き当職に於て保管中なるに依り何人と雖も当職の許可なくして之を占拠すべからず若し犯したるものは刑罰に処せらるべし但当建物は債権者が帝國美術學校校舎用として同校生徒に美術學藝を教授する目的の範囲内に於いて之れが使用を債権者に許可す 右公示す 東京区裁判所執達吏小野領四郎 |