多摩帝国美術学校のピンポイント爆撃 5月24日1時36分〜3時50分 5月25日12時10分〜40分  

海軍電波研究所(多摩帝国美術学校) 1棟を残して全焼
左隣地の無傷の白い校舎は。養護施設クリュッペルハイム東星学園(守屋東 日本キリスト教婦人矯風会 学校法人大東学園理事長)
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敵機の本土爆撃は漸次頻繁、大規模となりつつあるが、
4月16日から5月31日までの空襲被害状況とその特色が、当局の調査によってまとめられた。
それによると4月16日以後1ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主とし、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、
5月14日以後再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、5月14、17日名古屋に、23、25日東京、29日横浜に来襲した。
この空襲で注目されるのは、29日の横浜爆撃で従来の夜間爆撃戦法をやめ、午前の晴天時に来襲していることで、
6月1日の大阪爆撃と併せ考える時、今後敵は白昼の無差別爆撃を行なうことが予想される。
また他の特色としては、
(一)多数戦闘機の護衛を伴い来襲し
(二)港湾水路に機雷敷設
(三)宣伝ビラ散布の執拗な努力をしていることなどである。
さらに警戒を要することは衛星都市ないし中都市、交通の中心地に爆撃を加える傾向のあることである。
4月16日から5月31日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、
大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、
単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。
このほか熱田神宮本殿、日枝神社、松蔭神社、東郷神社なども災厄を受け、寺院では増上寺、泉岳寺等も爆撃された。
病院では、慶応病院、鉄道病院、済生会病院、松沢病院、青山脳病院、名古屋城北病院、県立脳病院など。
学校では慶応大学、早稲田大学、文理科大学、東京農大、一高、成城学園、日大予科、女子学習院を初め中学、国民学校多数。
文化的遺産では名古屋城天守閣、黒門、日比谷図書館、松村図書館など多数。
とくに23、25日の東京空襲では秩父宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、梨本宮、北白川宮の各宮邸、東久邇宮鳥居坂御殿、李鍵公御殿などが災厄を受け、
公共施設では外務省、海軍省、運輸省、大審院、控訴院、特許局、日本赤十字社の一部ないし大部の焼失をみたほか、
帝国ホテル、元情報局、海上ビル、郵船ビル、歌舞伎座、新橋演舞場なども一部ないし大部を焼失した。
なお同期間内の大都市空爆被害は、東京全焼257,000戸、戦災者約100万人、名古屋全焼36,000戸、戦災者約10万、横浜132,000戸、戦災者約68万人と推定され、
この期間中に静岡、浜松にも相当被害あり、九州、四国、山陽方面にも戦略爆撃による被害があった。 


焼夷兵器 AMIS (Anti Material Incendiary Submunition)  [Japan Air Raids] →アントニン・レーモンド

→スタンダ−ド石油の日本家屋(アントニン・レーモンド設計)ユタ砂漠

ナフサやパーム油等をゲル状にした油脂(ナパーム)を焼夷剤として用いる油脂焼夷弾
黄燐(白燐)を焼夷剤として用いる黄燐焼夷弾(白燐弾)
エレクトロン(マグネシウム96%、アルミニウム4%の軽合金。点火剤で650度程度に熱せられると、一瞬のうちに溶解し、白く激しく輝いて燃焼。燃焼温度は2000〜3000度)を弾体としテルミット(アルミニウムと酸化鉄の混合物)を焼夷剤として用いるエレクトロン焼夷弾(テルミット焼夷弾)

焼夷兵器は古来より建造物や森林や洞窟といった遮蔽物に隠れ潜む敵を掃討するために用いられてきました。直射でなければ効果的に威力を発揮できない通常兵器と異なり、焼夷兵器は遮蔽物を迂回して、あるいは焼き払って、火と煙と毒性物質で標的を攻撃できた。

日本のように木造家屋の多い都市攻撃には、テルミット弾の大量散布、ついで黄燐爆弾、油脂焼夷弾が用いられた。
ドイツのような石造りの都市に対しては、マグネシウム爆弾が主体であった。

B29から投下される焼夷弾は、はカプセルのような構造に子が収納されて束ねられている親子爆弾。
このカプセルが投下されると、途中で分解し、中から多数の焼夷弾が飛び出す。
焼夷弾の落下時の姿勢を安定させるための尾部のリボンに、 カプセルを分解させる時の火薬により火が付くので、落ちて来る焼夷弾は、まるで火の雨に見える。
子爆弾が地面に激突すると、頭部の信管が作動し、2、3秒後に頭部が爆発する。その勢いで、ナパームが燃えながら四散する。


[1947]


4/15 多摩川丸子橋