多摩美術大学と武蔵野美術大学の関係 |
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閉鎖された吉祥寺校舎 |
(移転反対派の仮校舎) |
新築した上野毛校舎 |
→ 移転反対運動の新聞記事 |
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1960/5/27 美術大学新聞 村田晴彦 |
吉祥寺校地 およびその南隣接地 | 設置者 | 校長 | ||||||
1929年 | 帝国美術学校 | ||||||||
→吉祥寺校舎の沿革 →登場人物 第一次「帝国音楽学校」 |
木下成太郎 |
北れい吉
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1930年 | 「帝国音楽学校」北が開設 下北沢 木下債権を清算 3万円 増築 金原より無期限借1.5万円 日歩2.2銭 米山より借用0.8万円 年7分 |
〃 | 〃 | ||||||
1931年 | 〃 | 〃 | |||||||
1932年 | 北校長 外遊 5月 増築 | 〃 | 〃 | ||||||
1933年 | 北校長 帰国 8月 増築 | 〃 | 〃 | ||||||
校長 | 設置者 | 上野毛校地 | 1934年 | 〃 | 〃 | ||||
1) 多摩帝国美術学校 | |||||||||
杉浦非水 (商業美術) |
國澤新兵衛 (大同殖産) |
上野毛校舎の沿革 教授 理事 上野毛校舎 新築 10月 →声明文 |
1935年 | 移転反対集会 4/22 同盟休校 5/16 吉祥寺校舎を封鎖 5月 「帝国音楽学校」紛争 東京地裁口答弁論 7/10
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〃 原告弁護士 木下三四彦 (実弟かつ養子) |
〃 |
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〃 | 〃 | 杉浦非水「自伝60年」 | 1936年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 丹羽武朝 (東横電鉄) |
「財団法人 多摩帝国美術学校」 徴兵猶予26歳まで |
1937年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 1938年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1939年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1940年 |
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〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 太平洋戦争 内藤子爵邸に牧野アトリエ |
1941年 |
調停委員 11月 (木下成太郎の銅像) | 〃 | 〃 | |||
〃 | 〃 | 成田千里(師範学校) | 1942年 | 原告死亡のため訴訟中断 11月 | 死亡 | 〃 | |||
〃 | 斉藤浩 (昭和医大) |
徴兵猶予制度廃止 | 1943年 | 調停委員会 元法制局長官に経営譲渡 北に7万円 金原に 6.5万円 |
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〃 | 〃 | 徴用:海軍電波研究所 学徒出陣 勤労動員 |
1944年 | 戦時特別調停委員会で和解成立 「大東亞工学院」4月 |
安井誠一郎 (大東亞省) |
安井誠一郎 | |||
〃 | 〃 | 戦災 | 1945年 | 大東亜が法政中学に売却 | 〃 | 〃 | |||
〃 | 上条秀介 (昭和医大) |
1946年 |
「武蔵野美術研究室」3月 郡山 「極東造型学園」7月 募集なし |
金原名取 | 郡山三郎 (帝美) |
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〃 | 杉浦非水 (帝国美術) |
「多摩造形芸術専門学校」 | 1947年 | 金原が田中次郎吉に売却 2月 「造型美術学園」3月 募集なし 山脇学園長 5月 郡山辞任 |
瀧井三郎 2月 田中高愚 3月 (鶴吉舎幹) |
山脇巌 (Bauhaus) |
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〃 | 〃 | 1948年 | 名取経営顧問 1月 名取校長11月 山脇辞任 12月 |
〃 |
名取堯 (帝美) |
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1) 武蔵野美術学校 | |||||||||
〃 | 〃 | 1949年 | 田中次郎吉が急逝2月 田中誠治が校長事務 名取顧問 |
田中誠治10月 (相続24歳) |
田中誠治 (事務代行) |
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〃 | 〃 | 「財団法人多摩美術短期大学」 | 1950年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 「学校法人多摩美術短期大学」 | 1951年 |
「準学校法人武蔵野美術学校」8月 丸山鶴吉校長 10月 |
〃 |
丸山鶴吉 (追放解除) |
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〃 | 〃 | 1952年 | 〃 | 〃 | |||||
井上忻治 | 〃 | 2) 多摩美術大学 |
1953年 | (内田秀五郎の銅像) | 〃 | 〃 | |||
〃 | 〃 | 学生数の推移 | 1954年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 村田理事が創立20周年式典を開催 | 1955年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 1956年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1957年 | 「学校法人 武蔵野美術学校」3月 「武蔵野美術短期大学」4月 |
〃 〃 |
有光次郎 (文部次官) |
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〃 | 〃 | 1958年 | (金原省吾 没) | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 1959年 | 併設 武蔵野美術学校 有光次郎校長 4月 名取名誉校長 4月 |
〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 1960年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 村田晴彦 (帝国美術) |
(北れい吉 没) | 1961年 | 鷹の台校地開設 | 〃 | 〃 | |||
〃 | 〃 | 1962年 | 2) 武蔵野美術大学 |
〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 大学紛争前期:理事会分裂 | 1963年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 3) 修士課程 | 1964年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 1965年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1966年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 井上忻治 | 1967年 |
〃 | 〃 | |||||
石田英一郎 (民族学) |
〃 | 大学紛争中期:全共闘運動 | 1968年 | 〃 | 〃 | ||||
末松代行 |
村田晴彦 | 全共闘運動 | 1969年 | 鷹の台校地に全学統合 | 〃 | 米澤代行 久保代行 |
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真下信一 (哲学) |
〃 | 大学紛争後期:学長と理事長の分裂 | 1970年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 八王子校地に全面移転開始 | 1971年 | 〃 | 久保義三 (教育学) |
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〃 | 〃 | 1972年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1973年 | 3) 修士課程 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 八王子校地に移転完了 | 1974年 | 〃 | 〃 | ||||
内藤代行 | 内藤頼博 |
停滞の20年 | 1975年 |
〃 | 〃 | ||||
〃 | (高裁長官) 〃 |
「多摩美術大学40年の歩み」出版 編集制作者の江尻と高橋は 1955村田理事が開催した 20周年式典を尊重して40年とした |
1976年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 1977年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1978年 | 〃 | 米澤嘉圃 (中国美術) |
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内藤頼博 | 〃 | 1979年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1980年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1981年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1982年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1983年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1984年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1985年 | 〃逝去 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 「多摩美術大学50年史」出版 奥野委員長は 「小史」でなく「年史」とした |
1986年 | 田代宗光 (会計士) |
水尾比呂志 (民芸) |
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後藤狷士 (美学) |
〃 | 1987年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1988年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1989年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1990年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 藤谷宣人 |
1991年 | 「武蔵野美術大学60年史」出版 帝国美術学校を含めて60年とした為 インターネット情報がフェイクした |
〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 溝の口校舎売却 | 1992年 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1993年 | 〃 | ||||||
〃 | 〃 | 1994年 | x | 前田常作 (絵画) |
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〃 | 〃 | 創立60周年記念式典 | 1995年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 改組と建設の10年 | 1996年 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 1997年 | 〃 | x〃 | |||||
〃 | 〃 | > | 1998年 | x〃 | 〃 | ||||
辻惟雄 (日本美術) |
〃 | 「自己点検評価報告書」 |
1999年 | 長尾重武 (建築) |
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〃 | 〃 | 2000年 | 前田常作 (絵画) |
〃 | |||||
〃 |
〃 | 4) 博士後期課程 | 2001年 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 2002年 | 〃 | 〃 | |||||
高橋史郎 (デザイン) |
〃 | 2003年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 2004年 | 4) 博士後期課程 | 〃 | 〃 | ||||
〃 | 〃 | 2005年 | 〃 | 〃 | |||||
〃 | 〃 | 2006年 | 「自己点検評価報告書」 | 〃 | 〃 | ||||
清田義英 (仏教) |
〃 | 八王子校舎 竣工式典 | 2007年 | 〃 | 甲田洋二 (絵画) |
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〃 | 〃 | 2008年 | 「武蔵野美術大学のあゆみ」出版 | 高井邦彦 (東京銀行) |
〃 | ||||
5) 大学基準認定 | 2009年 | 5) 大学基準認定 | |||||||
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2010年 | |||||||||
2011年 | |||||||||
2012年 | |||||||||
2013年 | |||||||||
2014年 | |||||||||
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2015年 | ||||||||
多摩美術大学 八王子校舎 |
武蔵野美術大学 鷹の台校舎 |
1991年「武蔵野美術大学60年史」の出版以降、一般に『武蔵野美術大学は1929年に創立。武蔵野美術大学の前身である「帝国美術学校」から多摩美術大学が独立した』と記述されているのは、正しくありません。真実は以下の通りです。 1929年 北れい吉が吉祥寺に創立した「帝国美術学校」は、専門学校への昇格を目指して、上野毛への全面移転を進めた。一方、吉祥寺での残留を希望する分割派は、1935年に「帝国美術学校」敷地の裏側南隣地に女子師範学校の中古校舎を移築し、地元政治家や木下成太郎校主を担ぎだして裁判係争となる。 「帝国美術学校」が東京地裁で係争中と成った為に、その名称は使用できないので、移転先の学校名称は「多摩帝国美術学校」として東京府知事 横山助成が認可した。 終戦後の1947年に、旧「帝国美術学校」の南隣接地にあった金原名取組合の学校を、多摩帝国美術学校の後援会長であった丸山鶴吉配下の田中次郎吉が買収して各種学校「武蔵野美術学校」を開校し、丸山鶴吉が校長となる。 その後、1953年に「多摩美術大学」が上野毛に創立され、その9年後の1962年に「武蔵野美術大学」が吉祥寺に創立された。 従って「武蔵野美術大学」は、「帝国美術学校」の名称も校地も継承していない。 |