→多摩美術大学の歴史 →高橋士郎 →吉祥寺校舎の沿革

多摩美術大学と武蔵野美術大学の関係


北が設立した各種学校「帝国音楽学校」「帝国美術学校」は、北の1年間の海外不在を契機に内部紛争となる。

「帝国美術学校」は上野毛へ移転して専門学校に昇格することとなったが、移転反対運動がおこり訴訟係争となる。北は吉祥寺の校舎を封鎖して、上野毛に「多摩帝国美術学校」(現:多摩美術大学)を新設した。

一方、移転反対派は吉祥寺校舎の南隣接地に、東京女子高等師範学校が関東大震災の復旧時に使用した御茶之水の仮設校舎を移築して授業を再開した。

封鎖された「帝国美術学校」の裁判は8年間にわたって長期化したが、太平洋戦争の戦時調停によって、校舎は海外鉱業協会に譲渡され「大東亜工学院」となり、終戦時に法政中学校に売却され、現在はマンションになっている。

移転反対派の仮校舎は、終戦後に引揚帰国した鉱山経営者が購入し、1947年に各種学校「武蔵野美術学校」(現:武蔵野美術大学)が開校する。


閉鎖された吉祥寺校舎                        移転反対派の仮校舎
                                  女子師範学校の震災仮設校舎を移築

新築した上野毛校舎(設計:今井兼次)                     → 移転紛争の新聞記事
水色は移転反対派



1960/5/27 美術大学新聞 村田晴彦
  吉祥寺校地 およびその南隣接地 設置者 校長
1929年 「帝国美術学校」 開設

→吉祥寺校舎の沿革 →登場人物
第一次「帝国音楽学校」

木下成太郎
(代議士)


北れい吉
(思想家)

1930年 「帝国音楽学校」北が開設 下北沢
木下債権を清算 3万円  増築
金原より無期限借1.5万円 日歩2.2銭
米山より借用0.8万円 年7分
1931年  
1932年 北校長 外遊 5月     増築
1933年 北校長 帰国 8月     増築
校長 設置者 上野毛校地 1934年  
杉浦非水
(商業美術)
國澤新兵衛
(大同殖産)


1) 多摩帝国美術学校
上野毛校舎の沿革  教授 理事
上野毛校舎 新築 10月 →声明文
1935年 移転反対集会 4/22 同盟休校 5/16
吉祥寺校舎を封鎖 5月
「帝国音楽学校」紛争
東京地裁口答弁論 7/10
  
(南隣接地に移転反対派が
女子師範の仮校舎を移築
10月
 




原告弁護士
木下三四彦
(実弟かつ養子)

杉浦非水「自伝60年」 1936年  
丹羽武朝
(東横電鉄)
「財団法人 多摩帝国美術学校」
徴兵猶予26歳まで
1937年  
1938年  
1939年  
1940年 (南隣接地を金原が東京逓信局に賃貸
太平洋戦争 1941年 調停委員 11月 (木下成太郎の銅像)
成田千里(師範学校) 1942年 原告死亡のため訴訟中断 11月  死亡
斉藤浩
(昭和医大)
徴兵猶予制度廃止 1943年 調停委員会
元法制局長官に経営譲渡
北に7万円 金原に 6.5万円
 
徴用:海軍電波研究所
学徒出陣 勤労動員
1944年 戦時特別調停委員会で和解成立
「大東亞工学院」4月
安井誠一郎
(大東亞省)
安井誠一郎
戦災 1945年 吉祥寺校舎を法政中学に売却
上条秀介
(昭和医大)

灰塵からの再生
溝の口校舎の沿革

1946年 (南隣接地「武蔵野美術研究室」3月 郡山
(南隣接地「極東造型学園」7月 募集なし
金原名取 郡山三郎
(帝美)
杉浦非水
(帝国美術)
「多摩造形芸術専門学校」 1947年 (南隣接地を金原が田中次郎吉に譲渡 2月
(南隣接地「造型美術学園」3月 募集なし
(南隣接地 山脇学園長 5月 郡山辞任
瀧井三郎 2月
田中高愚 3月
山脇巌
(Bauhaus)
  1948年 (南隣接地 名取経営顧問 1月
(南隣接地 名取校長11月 山脇辞任 
1) 武蔵野美術学校 12月

名取堯
(帝美)
  1949年 田中次郎吉が急逝2月
田中誠治が校長事務 名取顧問
田中誠治10月
(相続24歳)
事務取扱
「財団法人多摩美術短期大学」 1950年  
「学校法人多摩美術短期大学」 1951年
「準学校法人武蔵野美術学校」8月
丸山鶴吉校長 10月

丸山鶴吉
(警視総監)
  1952年  
井上忻治
(帝国美術)
2) 多摩美術大学
1953年 (内田秀五郎の銅像)
学生数の推移 1954年  
村田理事が創立20周年式典を開催 1955年  
  1956年  
  1957年 「学校法人 武蔵野美術学校」3月
「武蔵野美術短期大学」4月

有光次郎
(文部次官)
  1958年 (金原省吾 没)
  1959年 併設 武蔵野美術学校
有光次郎校長 4月 名取名誉校長 4月

八王子校地購入1960-64年
「もとは帝国美術」美術大学新聞

1960年  
村田晴彦
(帝国美術)
(北れい吉 没) 1961年 鷹の台校地開設
  1962年 2) 武蔵野美術大学
  1963年  
大学紛争前期:理事会分裂
3) 修士課程 4月
1964年  
  1965年  
  1966年  
井上忻治   1967年
 
石田英一郎
(民族学)
大学紛争中期:全共闘運動 1968年  

末松代行
村田代行

村田晴彦 全共闘運動 1969年 鷹の台校地に全学統合 米澤代行
久保代行
真下信一
(哲学)
大学紛争後期:学長と理事長の分裂 1970年  
八王子校地に全面移転開始 1971年   久保義三
(教育学)
  1972年  
  1973年 3) 修士課程 4月
八王子校地に移転完了 1974年  
内藤代行 内藤頼博
停滞の20年 1975年
 
(高裁長官)
「多摩美術大学40年の歩み」出版
編集制作者の江尻と高橋は
1955村田理事が開催した
20周年式典を尊重して40年とした
1976年  
  1977年  
  1978年   米澤嘉圃
(中国美術)
内藤頼博   1979年  
  1980年  
  1981年  
  1982年  
  1983年  
  1984年  
  1985年   〃逝去
「多摩美術大学50年史」出版
奥野委員長は
「小史」でなく「年史」とした
1986年   田代宗光
(会計士)
水尾比呂志
(民芸)
後藤狷士
(美学)
  1987年  
  1988年  
上野毛に美術学部二部 1989年  
  1990年  
藤谷宣人
(常務)
  1991年 「武蔵野美術大学60年史」出版
帝国美術学校を含めて60年とした為
インターネット情報がフェイクした
溝の口校舎売却 1992年  
  1993年  
  1994年   前田常作
(絵画)
創立60周年記念式典 1995年  
改組と建設の10年 1996年  
1997年  
1998年  
辻惟雄
(日本美術)

「自己点検評価報告書」

1999年 (田中誠治の胸像) 長尾重武
(建築)
2000年   前田常作
(絵画)

4) 博士後期課程  4月 2001年  
2002年  
高橋史郎
(デザイン)
2003年  
2004年 4) 博士後期課程 4月
2005年  
2006年 「自己点検評価報告書」
清田義英
(仏教)
八王子校舎 竣工式典 2007年   甲田洋二
(絵画)
  2008年 「武蔵野美術大学のあゆみ」出版 高井邦彦
(東京銀行)
    5) 大学基準認定 2009年 5) 大学基準認定    

2015
帝国美術学校を含まず

 
 
 

2009
帝国美術学校を含む





1991年「武蔵野美術大学60年史」の出版以降、一般に『武蔵野美術大学は1929年に創立。武蔵野美術大学の前身である「帝国美術学校」から多摩美術大学が独立した』と記述されているのは、正しくありません。真実は以下の通りです。

1929年 北れい吉が吉祥寺に創立した「帝国美術学校」は、専門学校への昇格を目指して、上野毛への全面移転を進めた。一方、吉祥寺での残留を希望する分割派は、1935年に「帝国美術学校」敷地の裏側南隣地に女子師範学校の中古校舎を移築し、地元政治家木下成太郎校主を担ぎだして裁判係争となる。

「帝国美術学校」が東京地裁で係争中と成った為に、その名称は使用できないので、移転先の学校名称は「多摩帝国美術学校」として東京府知事 横山助成が認可した。

太平洋戦争が勃発すると、係争中の「帝国美術学校」は、海外鉱業協会理事長 安井誠一郎に経営譲渡されて「大東亞工学院」となり、「帝国美術学校」は閉校した。その後、終戦に伴い「大東亞工学院」は消滅し、校舎は法政中学に売却された。

1935年 上野毛に移転した「多摩帝国美術学校」は、日本軍の海軍電波研究所に徴用されるが、米軍のピンポイント爆撃により校舎を消失する。終戦後の1946年に、北れい吉配下の学生監 村田晴彦が溝之口の旧軍需工場を国から借用して、専門学校「多摩造形芸術専門学校」を復活する。

終戦後の1947年に、旧「帝国美術学校」の南隣接地にあった金原名取組合の学校を、多摩帝国美術学校の後援会長であった丸山鶴吉配下の田中次郎吉が買収して各種学校「武蔵野美術学校」を開校し、丸山鶴吉が校長となる。

その後、1953年に「多摩美術大学」が上野毛に創立され、その9年後の1962年に「武蔵野美術大学」が吉祥寺に創立された。

従って「武蔵野美術大学」は、「帝国美術学校」の名称も校地も継承していない。

参考文献 wikipedia 私立美大の王者 大学評判起

多摩美術大学 八王子校舎             武蔵野美術大学 鷹の台校舎