第4章 灰塵からの再生 専門学校認可から大学設立へ 溝ノ口時代 (7年間) →溝ノ口校舎の沿革
1946 昭21 |
占領下の日本 |
溝の口に『学校工場』を操業 村田晴彦 牧野虎雄 逝去 56歳 北れい吉 帝国議会 『憲法改正案』 |
新制大学「四大教育指令」 「京都市立美術専門学校」 「金沢美術工芸専門学校」 旺玄会 再出発 GHQ セントラル映画社設立 デペンデントハウス GHQ映画「わが青春に悔なし」 民主主義科学者協会 |
ENIAC ソウル大学美術大学 弘益大学美術大学 アンフォルメル |
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1947 昭22 |
小絲源太郎 林武 円鍔勝三 芹沢けい介 坂崎坦 富永惣一 大場磐雄 |
「多摩造形芸術専門学校」 専門学校令似よる昇格 溝ノ口の軍需工場を借入 学生募集 4月 美術部40名 建築部10名 工芸部50名 校長 井上忻治 理事長(学内) 杉浦非水(軽井沢在) 新理事(学内) 井上忻治 村田晴彦 今井兼次 理事(昭和医) 上条秀介 200,000円 石井吉五郎 300,000円 斎藤浩 50,000円 理事(学外) 藤原繁太郎 (衆院議員 日本社会党 経営資金寄付 吉田彦太郎 50,000円 緑自動車 河合俊作 50,000円 多摩美術工芸 |
日本国憲法施行 学校教育法 |
アメリカ中央情報局 | ||||
本校は明治開国以来初めてのの而も日本のただ一つの「私学」の美術学校として専門学校令に依る専門学校として本日文部省より認可を受けました。 文化日本、美術日本が今日から初めてスタート出来るのではないかと同慶に堪えないのであります。 本校が私立学校として十数年間、幾度か専門学校の申請を致しまして其の都度「文科系」の故を持って却下されました。 終戦後一年有の間に於いてさえ三度申請書を訂正させられまして漸く認可を受けたのであります。 この名誉を永久に保持いたしましに就ての皆様の絶大なる御支援を頂きたいのであります。 戦時中に於いては「私立の美術学校」なる故に自由主義温床なりと称し再三は廃校を強要されましたが、其の都度教職員が必死の嘆願を致しまして休校状態に於て高名だけの存続が許されて来たんであります。 而も昭和20年5月24日には戦災を受けて校舎、備品、図書、参考品全部を消失して終わったのであります。 終戦以来、教職員卒業生在校生が一致団結して復興に懸命の努力をつづけて居るにであります。 専門学校認可を機会に、今後一層の努力を致し、美術日本再建のためにつくしたい念願であります。 今後共何卒大方諸彦の御声援と御鞭撻の程をお願いいたします。 |
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1948 昭23 |
映画「生きている画像」牧野虎雄 |
戦後第1回の作品展開催 レイモンド建築設計事務所再開 |
オーウエル小説『1984』 |
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1949 昭24 |
『多摩美術』復刊第1号刊行 |
浅沼稲次郎 村田晴彦『漁業法』制定 「東京芸術大学」 「女子美術大学」 「日本大学芸術学部」 実験工房『モダンアート夏期講座」 |
「アートセンターカレッジ」 リー「宇宙空間の征服」 |
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1950 昭25 |
「多摩美術短期大学」財団法人多摩美術短期大学 全面授業再開 絵画科50定員 造形図案科40定員 彫刻科10定員 監事 池留三(佐渡出身弁護士) 斎藤浩 (昭和医) 新理事 逸見梅栄(今井理事と交代) 木造校舎130坪2,000,000円 竹中工務店 佐藤次夫 建設指揮 川端実 山名文夫 福田恒存 教授 |
「京都市立美術大学」 「金沢美術工芸大学短期大学部」 「女子美術大学短期大学部」 |
朝鮮戦争 「中央美術学院」 フィンランド白色デザイン |
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1951 昭26 |
学校法人多摩美術短期大学 吉田三郎 野口英世像除幕 上野公園 |
サンフランシスコ条約 瀧口修造「実験工房」 「準学校法人武蔵野美術学校」 手塚治虫『鉄腕アトム』 北れい吉訳『ヒューマニティー』 北れい吉「政界回顧20年」 山名文夫「日本宣伝美術会」 |
マクルーハン「機械の花嫁」 | |||||
1952 昭27 |
多摩美術大学後援会 本館木造1棟280坪を復旧 村田幸子職員 原簿 |
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1953 昭28 |
宮本三郎 教授 |
[二子玉川の路面電車] 横山操「森永地球儀ネオン」銀座 北れい吉 16回衆議院『綱紀粛正』 |
アロウェイ「ポップアート」 | |||||
1954 昭29 |
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1955 昭30 |
創立20周年 学生募集ポスタ 1955-1962 |
西山卯三「公団住宅」 北れい吉訳『現代の危機』 [55政治体制] |
レイヌ画廊「動き」展 | |||||
1956 昭31 |
上野毛校地5,267坪購入 「多摩図案会 在学生名簿」 中山公男 教授 |
アンフォルメル ジャクソン・ポロック事故死 |
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1957 昭32 |
美術学部第1回卒業式 133名 新理事 郷倉千尋(石井理事逝去) 新理事 奥村土牛(上条理事逝去) 重森弘庵 教授 |
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1958 昭33 |
講堂鉄骨建3階建480坪 奈良京都古美術研修旅行始まる ポール・ランド名誉教授 来校 坂崎乙郎 瀬木慎一 吉沢忠 教授
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「通商産業省デザイン課」 | ||||||
1959 昭34 |
杉浦理事長 理事:逸見 郷倉 佐々木 奥村 井上 村田 福沢一郎 建畠覚造 教授 剣持勇「インテリアデザイン」 |
『ZERO』ハインツ・マック | ||||||
1960 昭35 |
本館コンクリート造4階824坪 25周年記念 校歌 松葉良 新理事 佐々木大樹(藤原理事辞任) 八王子校地運動場 9月-1964年5月 「多難だった学校設立」村田
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「日本貿易振興会」 『ゼロ次元』加藤好弘 |