哲学者・言論人・政治家 北れい吉  号:鴨湖 光永 禮華 →北一輝と宋教仁

 
1885年


7月21日両津市湊に生 北一輝の実弟
 父:北慶太郎 初代両津町長 酒造業肥料問屋
        民権思想をもつ地方政治家
        田舎相撲の三役、義侠心に富
 母:リク 佐渡の新穂村の本間家の出
      弟は新潟県会議員を務めた本間一松
      妹は佐渡の名家であった大蔵家に嫁
      子は大蔵敏彦(共産党系の弁護士)

家系

佳子夫人 

  旧制佐渡中学校卒業  (佐和田町:村田晴彦 酒井億尋 河崎村:池留三 加茂村:山田辰之進)
  (早稲田大学相撲部 浅沼稲次郎政治経済学部1923卒雄弁会 藤原繁太郎商学部1923卒 浅岡信夫商学部1925卒陸上競技)
1914年 早稲田大学卒業後 土浦中学校、東京府第三中学校 勤務
早稲田大学 哲学講師 ドイツ西南学派を研究 ベルグソンやリッケルト、クローチェなどの影響
大正デモクラシーの旗手として論壇に登場し、民本主義の学問的根拠、政治学のあり方をめぐって吉野作造と論争
『ベルグソン哲学の解説及び批判』
『西洋哲学史』ロージヤース 藤井健治郎, 北れい吉合訳. 冨山房
  
1917年 (早稲田騒動 尾崎士郎「人生劇場」)
『近世哲学史』へフディング 訳 
1918年 6月渡米、ハーバード大学院哲学科入学
1919年 イギリス、フランス、イタリア、スイス
1920年 ベルリソ大学入学 リッケルト教授
1021年 ハイデルベルヒ大学転校
1922年 帰国11月
『哲学より政治へ』
『光は東方より』
『欧洲思想史』ヴィンデルバント 著、井上忻治訳、 興亡史論刊行会
1923年 大東文化協会に入り大東文化大学教授(1921年帝国議会において「漢学振興に関する建議案」が可決)
(大東文化協会会頭平沼騏一郎 大東文化学院総長 日本大学総長 東洋文化研究所創設 国本社の創設)
1924年 『妥当性の哲学』 東京早稲田泰文社
1925年 日本新聞の編集監督兼論説委員
大正大学教授を兼任 天台宗大学、新義派大学林、宗教大学が仏教連合大学に統合
青天会に参加 小川平吉(タコ入道 オガ平 ズル平)
愛国勤労党に参加(一君万民、君民一家の本義に基づき、搾取なき国家の建設)
『西洋哲学史』ロジャース 北訳 
『時間と自由意志』ベルグソン 北著訳述 新潮社
1926年 「学苑社」設立 東京市渋谷区千駄谷1-562 西洋哲学研究を紹介
『哲学概論』『哲学行脚』著、新潮社
1927年 『昭和維新』 世界文庫刊行会 東西文化の融合
1928年 第十六回衆議院議員選挙総選挙 新潟県第一区からの立候補を断念 [佐渡政党史稿] .
総合評論雑誌「祖国」を創刊、背後には大東文化協会、自ら主幹となり評論活動に入る [3号] [6号] [7号] [9号]
「祖国危急 ノ秋ニ際シ超然タルヲ誇ラントスルガ如キハ真ノ学徒タル面目ニ」
左右を問わない言論発表の場であったが、後に政治団体「国粋ファシスト」の「祖国同志会」の機関紙へと変る。
 
『改譯近世哲學史』ヘフディング 訳 新潮社,
『人間観』
『社会学上より見たる芸術』ジャン=マリー・ギュイヨー 訳 潮文閣,

「北家之墓 昭和三年 北 建之」多摩霊園 4区 1種 35側 6番「3歳で没した子の北光に対する哀悼の撰」

1929年
「帝国美術学校」創設 校長
1930年 第十七回総選挙(荏原郡・豊多摩郡・大島・八丈島選挙区で定員五人)から中立系で立候補  第十位4,873票で惨敗
「北氏は、思想家としては活発欲が強く、心熱はあるが気が多 い。どちらかといへば志士型、元気で健康で、雄弁はお手の物である」
「東京日日新聞」昭和五年二月十三日
頭山満  アジア主義 民間国家主義
     玄洋社
尾崎行雄 売家と唐様で書く三代目1943
     世界連邦建設同盟会長1948
本田熊太郎 1924ドイツ大使
     中華民国大使 A級戦犯
赤池濃  警視総監
     朝鮮総督府内務局長
大竹貫一 新潟県出身
     対露強硬論 国民大会主催
木村泰賢 インド哲学 駒澤大学卒1903
     イギリス留学1920's
渡邊海旭 ドイツ留学1900-10
     社会事業家 カルピス命名1919
「帝国音楽学校」父兄代表 9月
 同窓会三信条
 1、吾人は母校創立の精神が芸術に依る人生の聖化に在り、日本に創造せらるべき崇高優美なる美意識を通じて、
   世界文化に貢献するに在するを信ず。
 2、吾人は母校創立の動機が金甌無欠なる帝国の国体を反映せる有機的統一体を実現するに在りしを銘記し、
   校長の人格を中心とする倫理的統制と全体の調和的進歩の為めに努力すべき義務を自覚す。
 3、吾人は母校に於ける如上の基礎的精神の永続を祈り、永く師思を忘れず、
   会員相互の親愛と扶助の實を挙ぐることに依り、母校に対し永く大家族的聯絡を保たんことを念願す。
1931年 「帝国音楽学校」評議員  開校10月 有馬頼寧校長就任11月
 学生理事の制度
   評議員会(教授 3 名、父兄 3 名、校長)
   教授会(全教授)
   理事会(各学年から男女 2 名計 4 名ずつ選出)を組織 理事会内で選出された 5 名の学生は、
   学生の要望を直接教授会又は評議会に提出することのできる
   同校に就任する教授も、学生投票によって決定される
『世界の動きと我等の覚悟』著、日本交通協会
1932年 「帝国音楽学校」校長 6月

ハーバード大学客員教授 各国歴訪7月30日 ロサンゼルスオ リンピック(7月30日-8月14日)観戦
1933年 カナダ・ メキシコ・フランス・スイス・イタリア・ドイツ各国を歴訪
8月2日帰国
『再革命の独逸』
「映画国策樹立ニ関スル建議案」岩瀬亮(森矗昶の弟) 日本国策映画研究所製作 北 浅岡信夫
(ナチ「帝国文化院法」制定)
1934 『憲政常道論の迷信』著、国民協会出版部
1935年
「帝国音楽学校」同盟休校事件  校長 日大芸術との合併反対運動
「帝国美術学校」同盟休校事件  校長 上野毛への移転反対運動

「多摩帝国美術学校」を創設 名誉校長 理事 校歌
「多摩帝国美術学校」へ35,000円寄付8月13日
「多摩帝国美術学校」へ615円設置者出資金
1936年 第19回衆議院議員 新潟一区 当選(1回目)無所属後 立憲民政党に入党。
戦後一時公職追放に遭遇した時期を除き、衆議院議員として戦後まで活動
戦前より鳩山一郎と政治活動をともにし、翼賛選挙に反対して議員有志による「同交会」を結成

挨拶文 封筒
1936年 映画『国防全線八千粁』日本国策映画研究所製作
二・二六事件
「多摩帝国美術学校」へ女子部附設費 300円寄付 5月7日
1937年 第22回衆議院議員総選挙 新潟1区 当選(2回目)
『思想と生活』『ファッショと国家社会主義』
1940年
浅沼稲次郎当の書簡6/1
「オスロより欧州旅行中の鉄道料金(独逸 鉄道の分)105.30クローネン(貴 及び小生分)を還付してきました
ポーラン ド鉄道の分は還付不能 還付分は半額送付」
浅沼稲次郎当の書簡6/4
「先便の独逸鉄道料金払戻しの件につき(オスロよりの小切手105.30クロー ネン)横浜正金銀行丸の内出張所に持参いたしましたところ、戦乱勃発のため取り立て不可能につき、兎に角戦争終了までまってみてくれ」との返事
1941年 『排撃の歴史』
1942年 第21回衆議院議員総選挙 新潟一区 当選(3回目)非推薦(翼賛選挙)
1943年 『戦争の哲学』著、大理書房
4/7 学校報告祝賀会 溜池「錦水」北れい吉 牧野虎雄
1945年 鳩山一郎らと共に日本自由党を結党
2/1 北れい吉宅  杉森孝次郎 原口中将 牧野虎雄
1946年 第22回衆議院議員総選挙 新潟1区 当選(4回目) 日本自由党 政務調査会長、公職追放
自由党政務調査会長、筆頭総務兼憲法改正委員長
自由党鳩山一郎 組閣中に公職追放 
総理大臣 鳩山一郎、外務大臣 芦田均 or 吉田茂 or 植原悦二郎、内務大臣 大久保留次郎、 司法大臣 北昤吉、
文部大臣 呉文炳、大蔵大臣 大内兵衛、農林大臣 周東英雄、商工大臣 星島二郎、運輸大臣 河野一郎、厚生大臣 山本実彦、
無任所大臣 美濃部達吉、書記官長 石井光次郎、法制局長官 桶貝詮造
第90回帝国議会 質疑「憲法改正案
小委員会 7月25日(第1回)帝国憲法改正案
1947年 第23回衆議院議員総選挙 新潟1区 当選(5回目) 日本自由党
1951年 日本民主党、自由民主党の幹部
『ヒューマニティーの再建』The Reconstruction of Humanity ソローキン 北訳 文芸春秋新社
ピティリム・アレクサンドロヴィッチ・ソローキン Pitirim Alexandrowitsch Sorokin,1889-1968
月刊誌「日本乃日本人」 寄稿「政界回顧20年」「戦時議会」「ハーバート大学時代」「小川平吉翁」「追放漫談」
  1943
1952年 第25回衆議院議員総選挙 新潟1区 当選(6回目) 自由党 委員会発言31回出席 5回 39119文字発言
多摩美術大学後援会会長寄付
評論雑誌『猶興』 創刊 ゆうこう
(孟子曰く、文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の如きは、文王なしと雖も猶興(なおおこる)

[バハー・ウッラー]
『 古の道 : タゴール講演集』ラピンドナー・タゴール 譯 Tagore, Rabindranath, 1861-1941
1953年 第26回衆議院議員総選挙 新潟1区 当選(7回目) 鳩山自由党 
第16回衆議院本会議 質疑「綱紀粛正」 会議発言 1回 8171文字
第15回国会 予算委員会 質疑 委員会発言90回出席 19回発言 50039文字発言
上野毛講堂落成
1955年 第27回衆議院議員総選挙 新潟1区 当選(8回目) 日本民主党
ソローキン『現代の危機』 Crisis of Our Age 北訳 日本経済道徳協会
衆議院懲罰委員長 委員会発言129回出席 7回発言 8754文字発言

金婚式(?藤原繁太郎1960理事交代)
1958年 5月22日 第28回衆議院議員総選挙 新潟1区 落選 自由民主党
1961年 8月5日没 76歳  多摩霊園 4区 1種 35側 6番

2011「 志水家を題した墓誌 志水佳比古 建之
    平成二十三年十月吉日」28歳の若さで
2011/9/10に没した北の曾孫の志水佳奈子

夫人:佳子
娘婿:三瓶勇治 中外石油代表取締役 日本車輛製造常務監査役

1963年 「追想記」北れい吉先生三回忌法要会

多摩美術大学図書館の未整理「北蔵書」 その2

「北玲吉 哲学から政治へ」(峰島旭雄編『近代日本思想史の群像』)、本間恂一「北玲吉小論」(『佐渡郷土文化』九九号)