昭和四十九年三月
多摩美術大学の沿革史 (村田晴彦理事長口述 追記予定)
多摩美術大学の沿革史 緒論(旧帝国美術学校からの経緯)
昭和四年の春。北昤吉氏から、こんど美術学校の校長になることになった。学校の校舎はいま建設中だから一度見てくれといわれて、吉祥寺の畑の中へ案内された。平屋建長屋式のバラックが細長く一列に並んで建っている。これが学校か。豚小屋のようなものであった。修行年限三年、入学資格は中学三年修了の各種学校だという。
一体各種学校などという学校があるのですか、と北さんに聞いたら、洋裁学校、自動車学校並だとのことであった。そんな学校の校長なんかにならない方がよいのではないですかと私はいった。
当時北昤吉といえば第一次世界大戦後最初に独逸へ入いって三年間ハイデルベルヒで、リッケルト教授について哲学を修めて帰国したばかりの新しい哲学者として名声嘖々たるものであったのである。それなのに何んで専門学校でもない各種学校の校長なんかにと、私は思った。
北さんは校長を引受けて校舎も建設中なので、いまさら断ることも出来ないし困ったな、と困惑の面持ちであった。而かも木村泰賢さんが東洋哲学、井上忻治さんが心理学を三木清氏が西洋哲学、北昤吉氏が校長ということであったから、私はそれなら、将来入学資格を中学卒業、修業年限五年として、上野の美術学校にも優る学校を作る、という理想をもってしてはと進言した。北さんは、よしそうしよう、でなければ校長は断ることにするといった。
こうしたことから帝国美術学校という名の各種学校が昭和四年十月から吉祥寺の一角に生れたのだが、翌五年の四月、学生募集には「入学資格中学卒業、修業年限五年、定員百名、徴兵猶予の特典あり」と発表し、さらに近く専門学校昇格予定、と広告した。当時「徴兵猶予の特典」ということがきいて、入学志願者が定員を越して集り、昭和十年には在学生四百八十名とをったとのことであった。
ところが昭和九年暮に学生達は、専門学校には、いつ昇格してくれるのかと、北校長に要望書を提出した。
そのために北さんは電報で私を呼んでこのことについて相談されたが、私も四年前に北さんに進言したことをすっかり忘れていたので全く驚いたが、私は北さんと一緒に善隣協会の佐島啓介氏を訪ねて専門学校昇格基本金十万円の借入れを申入れたところ、佐島氏は望月軍四郎氏を紹介してくれたが、望月氏は大阪で急死されたので、望月氏に逢う機会は得られなかった。
そこで大倉善七郎氏や米山梅吉氏等に基本金借入れの申入れをしたが、何れも不成功に終った。
ついに東横社長五島慶太氏に基本金の借入れを申入れたところ「東横沿線に学校を移転するをらば基本金十万円と校舎建築資金全額を貸してもよろしい」といったので、早速この条件を承諾して(現在の上野毛校地)土地の賃貸借の仮契約を取交した。
ところが、学生は東横沿線へ移転しての専門学校昇格ならば反対だといい出した。吉祥寺を離れてまでの学校昇格には反対するということになって、学校昇格促進運動は移転反対運動に変ってしまった。北校長は、現在の吉祥寺校地千五百坪では専門学校校地として狭隘であり、少くとも五千坪の上野毛校地へ移転して専門学校に昇格させてはどうかと学友会委員にはかったが、学生側は移転そのものに反対で、現時点では学校昇格は問題ではないと言張って、遂に物別れとなった。
この時に当って、事務職員であった太田耕治氏が北校長支持と称して、児島正典、高橋重郎、中村太郎、高島武敏、柴田禎五、鈴木一徳の六名を配下として新撰組というものを組識して移転反対の学生に対し威嚇的行動に出た。これがかえって全学生の反感となって移転反対運動は急テンポにエスカレートして北さんの自宅にまで学生が多数押掛けて移転反対と校長の責任追求をした。学生達は東横本社にも出掛けて行って、東横と北さんとの契約を破棄することを要請した。東横は学校移転が不可能になったのでは仮契約は破棄すると言ってきた。東横との仮契約が破棄されたので北さんは全く窮地に立ってしまった。
この時学生達に最も信頼されていた井上忻治さんは、北さんの苦衷を学生に伝えて学生達に自重を極力すすめたため、学生達も信頼する井上さんの勧告を信じて一時井上さんにすべてを一任することになったのだが師範科(三年制)卒業生達の反対にあって再び形勢は逆転し、五月十五日に全学生がストに突入することになった。
ところが反面において北さんに種々雑多のデマや間違った情報が伝えられた。これに激怒した北さんは百名の学生を停学処分に、四十名に退学処分という全く希有の発表を校内に掲示した。
井上さんは北さんに幾度かその無謀な処分の取消しを申入れたが、太田氏や吉田三郎氏等の言葉を信じていた北さんは遂に井上さんの忠告を斥けて処分の取消しはしなかった。
井上さんは学生委員達に「自分の力及ばず、北さん説得は一先ず中止する」ことを申渡した。学生達は五月十四日の夜、井上先生に対し、これまでの先生の努力を感謝し、止むなく十五日からストに入ると申し出た。
私はこの間、井上さんと太田氏の双方の言分を開いていたので、北さんに井上先生の勧告に従うべきだと極力勧めたが、杉浦非水氏、吉田三郎氏、太田耕治氏等の意見に押切られて井上説は破れ、遂に全学ストとなった。学生父兄もまた学校と対立状態となり、北さんはますます窮地に追込まれてしまった。
この間において校長北昤吉氏に対して校主木下成太郎氏なるもの(代議士で帝国美術学校の設立名儀人)があらわれて「学校はおれのものだ」といい出し、北校長以下二十数名の教員を罷免するということになった。
私は文部省に赤間専門学務局長を訪ねて木下氏の処置の不当を訊したのに対し、赤間局長は「私学法の不備で止むを得ないことだ。実情は多分、北さんに理はあると思うが、私学は設立者に絶対権があるので校長の罷免も教員の罷免もすべては有効だ」とのことで私は全くの敗北感を抱いて帰った。
この時点にいたって漸く北さんはその非を悔い井上さんの友情を多とし、太田氏等の無責任をなじったが後の祭りであった。
当時帝国美術学校には四百八十名の学生が在ったが、その中の八十数名は図案科科長の杉浦非水さんに白紙委任という形をとったにも不拘実際には四十数名の学生に分裂し、彫刻科は三十五名の学生中、児島正典氏一名、日本画科は三十名の学生中、高橋重郎氏一名、油画科は四年生五十数名中二名、三年生六十名中九名、二年生五十名中一名、一年生五十名中一名となり総数四百八十名中僅かに六十四名の学生が北校長を支持するという形に転落した。
その上また東横からは土地の貸借契約を破棄された。校長は罷免、校名は校主木下氏のものとなり校舎は釘づけ、処分学生は全部木下校主兼校長名儀で取消しとなったのでは如何ともなし難く、北さんは私に何とかならないものかと言われたが、私としても最早や手も足も出ない形となってしまった。
さきに北校長に井上さんを否定させた杉浦非水氏、太田耕治氏、吉田三郎氏等の面目も丸潰れとなった。
それでもなお杉浦さんや太田耕治氏、吉田三郎氏等は四十数名の学生と共に帝国美術学校は、北校長とわれわれのものだと言張っていた。
北さんは「自分が太田耕治君の言葉と新撰組と称する学生の言葉を過信したことが過ちであった。井上君には全く申訳のないことをした」と心から悔恨の情をこめて真情を吐露されたので、つい私もその情にほだされて、何んとか北さんの面子をたてることを考えて見ようと思った。時は正に昭和十年六月であったが、これが多摩美の創設へと連らなる奇縁となったのである。
そのとき北さんは湯河原に静養中で、学校は昭和十年六月上旬から繰上げ夏季休暇として、今後の対策について考えていくことにした。
私は東京府知事横山助成氏を訪ねて、帝国美術学校紛争の経過について詳細に報告して何んとか解決策はないものかとたずねた。横山知事も私学法が不備で如何ともしがたい。北さんに気の毒だが知事の権限ではどうにも出来ないことだ。せめて北、木下両氏の仲に立って双方の和解を勧めて見ることしかないと言われたので、北さんの代理をたてて北海道の木下氏にその意を伝えたが、これも不調に終った。かくて帝国美術学校と北さんとの間の争いは校主木下成太郎氏と校長北昤吉氏との間で八年間に亘り法廷で争ったが、遂に昭和十八年に安井誠一郎氏(後の東京都知事)に校舎(七百十坪)を十三万五千円で売渡して、七万円は北昤吉氏に、六万五千円は金原省吾、名取堯両氏に渡すこととした。また東亜工学院の校長安井誠一郎氏を一時帝国美術学校の校長兼務し、帝国美術学校の学生募集はこれを中止することを条件として、北、木下両氏間の訴訟は取下げることで和解が成立した。(昭和十八年春早々のことであった) |
村田晴彦 |
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北昤吉 |
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リッケルト |
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木村泰賢 |
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井上忻治 |
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三木清 |
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佐島啓介 |
善隣協会 |
望月軍四郎 |
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大倉善七郎 |
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米山梅吉 |
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五島慶太 |
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太田耕治 |
新撰組 |
児島正典 |
新撰組 |
高橋重郎 |
新撰組 |
中村太郎 |
新撰組 |
高島武敏 |
新撰組 |
柴田禎五 |
新撰組 |
鈴木一徳 |
新撰組 |
吉田三郎 |
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杉浦非水 |
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木下成太郎 |
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赤間 |
文部省専門学務局長 |
横田助成 |
東京府知事 |
安井誠一郎 |
東亞工学院校長 |
金原省吾 |
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名取堯 |
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